■鉄人・小城得達のスーパー・ロングシュートを目撃!
さて1970年12月30日、私は東京・国立競技場のバックスタンドに座っていた。空は雲に覆われ、強くはなかったが北風が吹き、寒い午後だった。気温は10度を割っていたはずだ。しかし試合への期待からか、寒さなど感じなかった。正午キックオフの準決勝第1試合、東洋対日立は快適な観戦だった。
6年目のJSLで5回目の優勝を飾った東洋だったが、この試合は、前年に復帰した名将・高橋英辰の下で変身した「走る日立」に苦戦した。前半8分に先制を許し、相手のオウンゴールで追いついたが引き離すことはできず、延長戦でようやく小城得達がロングシュートを決めて突き放しに成功したのだ。
この年は「ワールドカップ年(メキシコ大会)」、すなわち「アジア大会年(バンコク大会)」に当たっていた。12月10日に開幕したアジア大会のサッカー競技は、出場10チームを3組に分けて1次リーグを行い、各組上位2位、計6チームで2次リーグ、両組の上位2位で準決勝、さらに決勝という方式だった。
日本は奮闘したが、5戦全勝で迎えた準決勝で、延長の末、韓国に1-2で敗れた。そして3位決定戦でもインドに0-1で屈した。何か「弱いころの日本」を見るような記録だが、そんな簡単なものではなかった。尋常ではない日程だったのだ。日本は12月10日、12日、14日と「中1日」で1次リーグをこなした後、また「中1日」で16日に2次リーグのインドネシア戦を戦い、それから3位決定戦まで、なんと4日連続の試合となったのである。韓国との準決勝はその3日目。韓国も連戦だったが、休み無しは2戦目だった。
結局、12月10日から19日までに10日間で7試合。今日では到底考えられない日程になったのは、サッカーが最も人気のある競技だったからだ。連日サッカーの試合をすることで大会収入を上げようともくろんだのだ。12月30日の天皇杯準決勝に進んだ4チームには、このアジア大会に参加した日本代表選手が数多く含まれていた。日本代表選手たちは疲労困憊のなかで天皇杯に臨んだのだが、なかでも東洋の小城はただひとりバンコクで7試合にフル出場し、守備の要として活躍した。彼が延長戦に決勝点を決めたときには、そのタフさに舌を巻いた。