大住良之の「この世界のコーナーエリアから」 第28回「天皇杯最大のミステリー 釜本は本当にコインを見たのか」の画像
第50回天皇杯の公式プログラム。表紙は前年度優勝、東洋工業の松本育夫。日本サッカー協会と大会の正式名称には「蹴球」が使われている。B5サイズで表紙を入れて8ページ。12月27日、準々決勝の4試合は、横浜の三ツ沢球技場で2試合、あとは広島競技場と西宮球技場で1試合ずつだった。
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時は50年前にさかのぼる。日が暮れたのにナイター照明も点いていない黒土の荒れたピッチの中央で、勝者がコイントスによって決められた。センターサークルに立つ3人の男たち。本当に勝ったのはどちらのチームだったのか。天皇杯最大のミステリーに、目撃者の大住さんが迫る――。

■半世紀前に天皇杯を見に行った

 夕闇が迫る国立競技場のピッチ中央に落ちた1枚のコイン。だがその裏表は、本当に確認されたのだろうか――。

 第100回の記念大会であるというのに、新型コロナウイルスの影響を受けたことしの天皇杯(正式名称は「天皇杯JFA全日本サッカー選手権大会」)は少し寂しい。Jリーグのチームが4つしか出場しないからだ。

 4カ月間も中断したJリーグは、試合数を減らさずに12月19日に閉幕させるべく、超過密日程を組んだ。そこで、通常ならJ3のクラブは都道府県大会の最終段階から、そしてJ1とJ2の計40クラブは本大会の2回戦からの天皇杯出場を、J1の1、2位、J2、とJ3の1位、計4チームだけにした。この日程は、天皇杯が「オープン化」される前、半世紀も前の大会方式を連想させる。

 私にとって初めての天皇杯、1970年度の第50回大会は、日本サッカーリーグ(JSL)の上位4チームと全国大学選手権のベスト4、計8チームによる大会だった。「社会人チーム4+学生チーム4」というこの形は、1965年度、JSLが生まれた年から始まり、1971年度まで続く。この間、1966年度には早稲田大学が優勝を果たし、1969年度には立教大学が決勝まで進出したから、力の面から見れば、不当な形とは言えなかった。このころ、1回戦に当たる準々決勝から決勝までわずか3ラウンドは、12月の下旬に集中して開催されていた。

 神奈川県横須賀市の隅っこに住んでいた高校生の私にとって、東京は気軽に行ける場所ではなかった。横浜の三ツ沢球技場にはときどきJSLの試合を見に行ったが、東京までは滅多に行けなかった。というわけで、「私の天皇杯デビュー」は、1970年、大学にはいって東京の四畳半の下宿で生活するようになった年の年末にようやく実現する。

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