■日本代表躍進の出発点
ミハイロ・ペトロヴィッチ監督、65歳。2006年6月にサンフレッチェ広島の監督として来日してからすでに17年。その後、浦和レッズ、そしてコンサドーレ札幌で監督を務め、今年の3月には西野朗監督が持っていた最多監督試合記録を抜き、30周年を迎えたJ1リーグの中で最も多くの試合で指揮を執る指揮官となった。
数が多いだけではない。
ペトロヴィッチ監督が来日した2000年代中盤のJリーグは、ジュビロ磐田や鹿島アントラーズの全盛時代が終わり、リアクション・サッカーが横行している時代だった。ペトロヴィッチ監督は、そこに攻撃的マインドを持ち込んだのだ。
広島はペトロヴィッチ体制の下で一度はJ2に降格する。だが、広島の首脳陣は辞任の意思を固めたペトロヴィッチ監督を慰留。見事に1年でJ1に復帰した広島は、ペトロヴィッチ監督の攻撃的戦術を浸透させることでJ1の強豪チームとなり、財政的な理由でペトロヴィッチ監督が去った後、アシスタントだった森保一が監督の座を引き継いで、バランスを改善してJ1リーグで3度の優勝を飾ることになる。
森保監督はその後、日本代表監督となり、森保監督の指導によって日本代表がワールドカップ本大会でドイツ、スペインを連覇することになるのだが、ペトロヴィッチ監督はその出発点にいたということにもなる。