■第二次安倍内閣は終わっても
2006年6月、彼を日本という「運命の地」に導いたのは、2003年にイビチャ・オシムさんを招聘してJリーグにセンセーションを巻き起こし、この年の6月にそのオシムさんを日本代表に送り出したジェフ市原・千葉のGM、祖母井秀隆さんだったという。
このシーズン、サンフレッチェ広島は小野剛監督体制下5シーズン目のサッカーが変調を来し、8節を終えて3分け5敗、最下位に低迷した。織田秀和強化部長は小野監督の解任を決めるとともに望月一頼GKコーチを暫定監督に立て、新監督捜しに着手した。第一候補はJリーグが始まったころに広島のエースだったイバン・ハシェックだったが最後のところで契約に至らず、次にはトニーニョ・セレーゾに声をかけた。しかしブラジル人のテクニカル・チームを連れてくるという彼の条件(南米の監督としては当然の話だった)は、広島の予算に合うものではなかった。
ミシャ自身が語ったところによれば、オシムさんの息子で千葉でコーチの座にあったアマル・オシムさんも候補のひとりだったという。しかしオシムさんが日本代表監督になることになり、アマル・オシムさんが千葉の監督を引き継ぐことになって暗礁に乗り上げた。そこに千葉GM祖母井さんの情報がはいったのだ。
織田さんはすぐにオーストリアに飛び、ミシャと話して「この人だ」と思ったという。そしてミシャにとっての「日本の冒険」が始まった。このとき、ミシャは48歳だった。
それは、通常の外国人監督のように長くて数年で終わる「冒険の旅」ではなかった。第一次の安倍晋三内閣がスタートした2006年から、「史上最長」の第二次安部内閣が幕を閉じた2020年9月の今日に至るまで、ミシャはJリーグの話題の中心に立ち続けている。しかも変わることのないひとつの哲学に基づいた魅力あふれる攻撃的サッカーを貫き、15シーズン、サンフレッチェ広島、浦和レッズ、そしてコンサドーレ札幌の3クラブでの活動を通じ、J1で433試合、197勝(9月18日現在、外国人監督歴代1位)の実績を築きつつ、日本サッカーに多大な影響を与え続けてきた。