■ビフテキと入浴する方法
私は女性がサッカーをするのを認めていなかったわけではない。1967年に神戸で行われた初めての女子チーム同士の試合はともかく、1970年代には東京や横浜でも女子のクラブが増え、定期的に試合が開催されているのも知っていたし、1979年に日本女子サッカー連盟が誕生し、日本サッカー協会の一員となったこと、その年度末(1980年3月)には第1回全日本女子選手権(現在の皇后杯)も行われたことも、十分承知していた。
だが、私自身は、女子選手と試合をする気にはなれなかった。技術のない私のサッカースタイルは、ともかく一生懸命に走り、厳しく当たり、戦うことだった。女子選手を相手にそんなプレーをしてケガをさせてしまうのが心配だったのだ。だが今井さんの口から「大住さんはいっしょに試合をしたくないと言っている」と聞かされた女子選手は、私のことを「女子サッカーを認めていない古くさいオヤジ」と思ったようだった。今日なら「女性差別主義者」と、もっとひどく断罪され、社会的な罰も受けてしまうかもしれない。
だがたしかに、私は「古くさいオヤジ」だったかもしれない。大学1年生のときの新宿・紀伊国屋書店での出来事については、この連載の第34回「1枚の写真」のなかで書いた。宝物のような英国の雑誌の最後の1冊を見知らぬ女性に譲り渡したのは、「女性にはサッカーはできないから」という理由だった。
当時の私にとって、サッカーは夢のように楽しいスポーツであり、私は心からサッカーを愛していた。しかし同時に、それは、土ぼこりとどろんこのスポーツだった。実際、練習や試合の後のウエア類を直接洗濯機に入れることなど許されなかった。まず家の外の水道で水洗いし、土を大方洗い流してから洗濯機に入れるように、母からきつく言われていた。
また、試合をすれば、ケガなどをしなくても、必ずと言っていいほど擦り傷ができた。ひざ小僧からはいつもかさぶたが消えなかったし、何より私を悩ませていたのは、「ビフテキ」と呼ばれた大腿(だいたい)上部外側の擦り傷だった。きれいにスライディングタックルをすると、長径5センチほどの楕円形のひどい「擦りむけ」が必ずできた。赤(もちろんにじんだ血である)と白(残された皮膚である)の細かいしま模様の傷は、そのまま風呂にはいってしまうと跳び上がるほど痛いので、そこにタオルを当てたたまま湯船にはいり、ゆっくりと湯になじませてからタオルを離すという高等テクニックを駆使しなければならなかった。
1970年当時の私には、こんなスポーツが女性に向いているとは、とても思えなかった。それはけっして差別などではなかったと思う。しかしそれから10年を経ても、私はそう変わってはいなかったようだ。