■女子チームの監督になって驚いたこと

 そんな私が、1984年から女子サッカーチームの監督になり、もう37年も続けているのである。人生や人の運命はまったくわからないものだ。

 最初は、ごく簡単な気持ちだった。一生懸命にサッカーに取り組んでいる女子チームが、監督がいなくて困っていた。中心選手は、試合前にメンバーを決め、メンバー表を書くことで手いっぱいになり、自分自身のウォーミングアップも満足にできないという話を聞き、「メンバー表を書くぐらいだったら試合に行ってもいいよ」と気楽に言ってしまったのだ。

 当時、私は学生時代から所属していた東京のクラブチームのマネジャーになったばかりだった。『サッカー・マガジン』で働いていた10年間は、日曜はほとんど取材や編集部での作業に費やされ、活動に参加できるのは数カ月に1回程度だったのだが、退職して土日しっかり休める仕事になり、私はようやく思い切りサッカーを楽しめる状態になっていた。しかしこの前年に連絡の手違いで東京社会人リーグ3部の試合で不戦敗、4部降格になってしまうという事件が起こり、監督と話して、私がこの年からマネジャーをすることにしたのだ。

 週にいちど、日曜だけの活動だったから、マネジャーの仕事はそれほど大変だったわけではない。しかし女子サッカーチームの試合も日曜日であり、時間が重なったり、グラウンド間の距離が遠くて「はしご」ができないこともある。「そういうときは行けないよ」というと、「それでもいい」という返事だったので、ともかく、女子チームの「監督」という立場になったのだ。

 だが参加してみて驚いた。女子チームの選手たちは、フィジカルだけでなく、技術的にもサッカーの理解度も私がプレーしていた男子チームより劣っていたが、試合に臨む態度、やろうと決めたことをやり抜く姿勢では、はるかに上回っていたのだ。どんなに苦しくても、戻らなければならないときには全力で戻る。そのモラルの高さは、男子の「日曜サッカー選手」とは大きくかけ離れたものだった。彼女たちの熱意にひかれ、私は次第に女子サッカーチームのほうに軸足を移していくことになる。そして男子チームのマネジャーの座を若手に譲り渡すと、その後の日曜日はほとんど女子チームの監督として過ごすことになる。

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