■女子サッカーでは雑誌が売れない
当時働いていた『サッカー・マガジン』で、「女子サッカーの味方」と言えば、故・千野圭一さんだった。1982年に私がベースボール・マガジン社を退職した後に、編集長の座を引き継ぎ、16年にわたって編集長を務めることになる伝説的な人物である。彼は70年代の終わりに女子サッカーの取材に行ってから熱烈な支援者になり、「毎号必ず女子サッカーを取りあげよう」と、いろいろな企画を立てて私に迫った。しかし多くの場合、私は「女子サッカーの比率を上げたくはない」と拒否した。
私には、社内からの圧力があった。「女子サッカーでは売れない」。そう上層部から言われていたのだ。当時、通信社を通じて、英国から女子サッカーの写真が流れてくることが時たまあった。しかしその多くは、女子サッカーを笑いものにした非常に「差別的」なものだった。日本でも、第1回の女子選手権のときには、メディアでそれに近い扱いがされていた。私はそうした扱い方がいやだった。
千野さんの企画は、ともかく「女子サッカー選手たちを応援したい」という一心から生まれたもので、興味本位ではなく、純粋に競技として取り扱おうとしたものだった。だが、私は女子サッカーに多くのページを割くことに消極的だった。
後に、私が『サッカー・マガジン』編集部を離れてから、千野さんは長野県の菅平高原でサッカーの大会を行う企画に参画したが、男子の大学同好会チームなどを中心に行われた1983年の第1回「サッカー・マガジン杯」の大会で、早くも女子だけのミニトーナメントも企画し、実施している。
この女子大会は、後に毎年5月に80チーム以上を集めて争われる「全国レディース大会」となり、千野さんはそこで発見した鳥取県の中学生を、千葉県から日本女子サッカーリーグ(後のなでしこリーグ)に昇格したばかりの「日興證券ドリームレディース」の鈴木良平監督に紹介、その選手は見事に成長し、後に日本代表の主将を務め、引退後は指導者となって活躍している。大部由美さんである。
そうした千野さんと比較されて、私が「女子サッカーの敵」と思われていたのは、まあ、仕方がないような気もする。