■西が丘のナイターを救った男

 停電ではなくても、照明が使えない場合がある。2011年の東日本大震災の後には、東日本地域で電力不足が深刻になり、Jリーグは震災後4月23日に再開したものの、関東以北では2カ月間近くナイターで開催することができなかった。日本サッカーリーグ(JSL)時代には、1970年代に起きた二次にわたる「オイルショック」により大きな影響を受けた。

 1972年に東京に西が丘サッカー場が誕生、照明設備(4基の照明塔方式)をもった東京で初めての本格的なサッカースタジアムとして注目され、JSLの主要舞台のひとつとなった。しかし1973年10月に起こった第4次中東戦争、そして1979年1月に始まったイラン革命により、「オイルショック」と呼ばれるエネルギー危機が起き、節電のため1974年と1980年にはナイターを1試合も開催できなかった。

 この状況をなんとかしたいと動いたのが、ヤンマーディーゼルで営業を担当していた浜頭昌宏さんだった。1979年までセンターバックとしてヤンマーの数々のタイトルを支えてきた浜頭さんは、西が丘のナイターが使えない事態を憂慮、1980年夏から競技場側と交渉を続け、1981年の1月に自家発電機設置にこぎつけた。そして1981シーズンの第1節、4月6日(月)に行われた古河電工対読売サッカークラブで、約1年半ぶりに西が丘にナイターが戻った。

 入場者は2000人。心配された照度は以前とまったく変わらず、浜頭さんをほっとさせた。ただ試合はキックオフとともに降り始めた雨でピッチコンディションが悪化、読売クラブの個人技が殺され、ロングボールを多用した古河が4-2で逆転勝ちした。ちなみに、前半2分に読売クラブの先制点を決めたのは都並敏史。13分の古河の同点ゴールは、FW田嶋幸三からパスを受けたMF岡田武史が左からクロスを入れ、それをFW吉田弘が決めたものだった。

 西が丘の「自家発電機」は、現在も非常時用のバックアップとして大事に整備されている。他の競技場にも「非常時用電源」はあるが、その多くは、試合を続行させる照明には十分ではなく、場内放送や通路の非常灯など、万が一のときのセキュリティー対策用とされているようだ。

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