子供のころに初めて行ったナイトゲームでの、光にあふれたスタジアムの記憶は鮮明だ。その美しさは子供を酔わせ、いつまでも忘れることはない。そして、連れて行ってくれた父への感謝の気持ちにちょっとおセンチになったりするのだ。――今回は、夜間照明のおはなし。
■夢のようだった初めてのナイター観戦
私が初めて「ナイター」を見たのは、小学校3年生のときだった。といってもサッカーではない。当時の私は父の影響を受けた野球少年で、父に連れられ、川崎球場に「大洋ホエールズ対読売ジャイアンツ」の試合を見に行ったのだ。プロ入りして3年目の長嶋茂雄が元気いっぱいで、ライト前ヒットで2塁まで走ったのに目を回したり、大洋の近藤和彦(マッチじゃないよ!)が変なかっこうで打つのに大笑いしたり、とても楽しかった記憶がある。
だがサッカーの「ナイター初体験」はそれ以上に衝撃的だった。1967年9月8日、日本サッカーリーグ(JSL)の東西対抗。青山門から国立競技場にはいり、席のあるメインスタンドに向かうなかで途中のゲートからのぞくと、夢のような光景が広がっていた。当時ナイター照明を「カクテル光線」と言ったが、メインとバック、両側のスタンドから降り注ぐ光のなかで緑のピッチが美しく輝き、まさに別世界に来た感じだった。
1980年代まで国立競技場は春先に新しい芝を植え、6月末か7月はじめまで使用禁止だった。だから夏は美しかったが、秋口になると荒れ始め、11月以降はすっかり枯れた状態になっていた。しかしこの年は8月27日から9月4日まで開催されたユニバーシアードの主会場となったため、その4日後の東西対抗は最高のコンディションだった。私がうっとりするのも無理はなかった。
JSLの東西対抗は「日本代表紅白戦」のような試合。三菱を中心に古河、日立が集まり、日本代表の守備陣を並べた東軍に対し、西軍は東洋プラス釜本邦茂という構図。日本リーグで3連覇を視野に収めていた組織力抜群の東洋に「核弾頭・釜本」を加えた西軍の破壊力はすさまじく、釜本が3得点を決めて6-2で大勝した。
「照明のマジック」に酔いしれたのは、1976年に初めてパリのパルク・デ・プランスで試合を見たときだ。フランス代表が強くなる直前のことで、対戦相手は代表チームではなく、ドイツのクラブ、ボルシア・メンヘングラッドバッハだった。しかしスタジアムは5万の観衆で埋まっていた。ハーフタイムは、そばにいたフランス人記者を質問攻めにしてあっという間に終わった。ロッカールームから出てきた選手がピッチに広がる。すると、それまで観客席を照らしていた照明がすうーっと絞られ、薄暗くなる。そして視野いっぱいに、明るい照明に照らされた緑美しいピッチが浮かび上がったのだ。