■サッカー文化をはぐくむ仕事
当時のイングランドでは、マッチデー・プログラムはすでにひとつの文化だった。うすっぺらな冊子でも、ホームゲームごとに発行し続け、1年分たまれば立派な記録になる。そしてそれが10年、20年と続いていったら、「歴史」になる。特定の試合のマッチデー・プログラムは、高値で売買されていた。イングランドだけでなく、欧州のクラブはどこもマッチデー・プログラムを作り、ファンはそれを愛してクラブとつながっていた。
プロ・サッカークラブとしてスタートするからには、その最初のホームゲームからしっかりとしたマッチデー・プログラムをつくり、クラブが存続する限り続けていきたいというのが、浦和レッズの佐藤さんの考えだった。しかも日本サッカーリーグ時代に観客へのサービスとして各チームが無料配布していた「試合ガイド(A4の紙1枚の表に顔写真入りのメンバーリストをカラーで印刷し、裏面にその試合のガイドを簡単に記したようなもの)」ではなく、有料販売という方針だった。
佐藤さんから声をかけられたとき、私の頭をよぎったのは、ある英国人ジャーナリストの姿だった。スタン・リバセッジさん。1984年にトヨタカップのための取材でリバプールに行ったとき、クラブから「マッチデー・プログラム編集者」として紹介された彼の自宅兼編集作業室を訪ねたことがあったのだ。
リバセッジさんは40代後半ぐらいだっただろうか。すでにたくさんの著作のある高名なスポーツジャーナリストだったが、そのかたわら、長年リバプールFCのマッチデー・プログラムの編集に当たっていた。若いカメラマンを1人使っているが、編集作業はほぼひとりであると話してくれた。チームの取材をし、記事を書き、写真を選び、レイアウトまで自分でやっているというから、気の遠くなるような仕事だった。
彼の自宅はマンチェスターの南にあるセイルという閑静な住宅地にあった。チューダー調の壁をもつ優雅な邸宅だったが、明るい居間兼書斎には、ところ狭しと本や雑誌、新聞などが積み上げられ、大きな机の上には紙焼きしたモノクロ写真がたくさん広げられていた。ホームゲームは2週間にいちど。年間20数試合になる。「これは大変な仕事だ」と思った。