■浦和レッズは特別なクラブ
記念すべき創刊号は、デザイナーの勧めでB5判の上部3分の1ほどを切り落とした正方形のものとなった。表紙を入れて16ページで定価300円。森孝慈監督のコメントがあり(私はこれだけ担当した)、チーム紹介と全選手プロフィールが載り、日産から移籍してきた日本代表FW柱谷幸一選手のピンナップとインタビューがあり、それまでのプレシーズンマッチのレポートがあり、そしてサポーターの声も掲載されていて盛りだくさんだった。相手チームである「東日本JR古河(ジェフ市原)」の紹介文は、鹿島アントラーズとともにこのクラブをかけもちで担当していた千野編集長が自ら書いてくれた。
初戦の会場は大宮サッカー場。入場者は4934人。5000部を印刷したが、売れたのはわずか178部だった。「マッチデー・プログラムは会場でサービスとして配られるもの」というイメージが、当時のファンにはまだ根強かった。「おカネを出して買うもの」とは、考えられていなかったのだ。
この年、全9節のナビスコ杯リーグステージ(1回総当たり)で、浦和レッズのホームゲームは4試合。清尾さんはほぼ1週1号のペースで4号の編集に当たったが、まだ余裕はあった。だが2年目、3年目と試合数が増え、判型もB5判へと大きくしてページ数も増やしたため、仕事は非常にハードになっていった。そして「レッズのマッチデー・プログラム」はファン・サポーターの間でどんどん評判になり、売り上げを伸ばしていった。
清尾さんはMDP(「マッチデー・プログラム」をこう呼ぶようになっていた)の仕事にのめり込んでいった。何より、サポーターとクラブをつなぐ仕事であったからだ。最下位が続いた1993年、1994年の時点でさえ、浦和レッズのサポーターはJリーグで「最強」と言われていた。「サッカーどころ」浦和の若者たちはサッカーを見る目も厳しく、チームに無条件に愛情を注ぎつつも、遠慮なく批判した。SNSなどない時代、彼らの考えを表現する場として、MDPは重要な役割を担っていた。サポーターがMDPを成長させ、MDPがサポーターを力づけるという関係だった。浦和レッズがサポーターの存在によってJリーグで特別なクラブになっているとしたら、MDPこそ浦和レッズを浦和レッズたらしめた最大の要因と言っても過言ではない。