■姿かたちは変わっても
清尾さんは、結局、今日に至るまで、29シーズン、8月29日の大分トリニータ戦まで、まるで命を削るように1号1号に心血を注ぎ、編集に当たってきた。大病で数カ月間離れたこともあったが、快癒すると復帰し、また何ごともなかったかのように、チームとファン・サポーターを結びつけるために、毎号心を込めて編集に当たった。そのなかで埼玉新聞という組織から離れて独立し、いまはクラブと直接契約を結んで編集に当たっている。
大分戦のMDPは通算588号。それは、浦和レッズというクラブの全ホームゲーム数に等しい。1試合1試合積み重ねられたMDPは、そのまま浦和レッズというクラブの歴史であり、このクラブが浦和という地域で育んできた「文化」そのものと言っていい。
コロナウイルス対策のため、ことし7月に再開されたJリーグでは当初「リモートマッチ(無観客試合)」が行われ、続いて入場者5000人限定という厳しい状態が続いている。その間、残念ながら、MDPは大幅に内容が縮小されただけでなく、クラブのオフィシャルサイトからPDF版をダウンロードする形となった(この形でも編集担当が清尾さんであることに変わりはない)。制限がもう一段階解除されて「収容数の半数」になれば昨年までの形に戻す方針のようだが、「紙版MDP復活」を待ち望む声は少なくない。
28年前の夏、私が「マッチデー・プログラム」の仕事から逃れ、埼玉新聞に、すなわち清尾さんに押しつけることに成功したのは、私の人生でも重要な出来事だったと思う。もし無考えに引き受けていたら、虚弱な私では3年ももたずに音を上げてしまっただろう。そして文化となり、歴史となるようなMDPは存在しなかっただろう。
いや、それ以上に、清尾さん自身はどう考えているか知らないが、私が苦しいに決まっている仕事から逃げたい一心で口から出まかせのように「地元に任せるべき」と言わなかったら、浦和レッズというクラブが、MDPをつくるために生まれてきたような人、清尾淳さんと出会うチャンスもなかっただろう。