■埼玉新聞からきた男

 1992年7月10日、東京・JR田町駅の近くにあった「三菱浦和フットボールクラブ」の事務所(このころ浦和レッズはまだ浦和市内に事務所をみつけられないでいた)に、上司といっしょに、埼玉新聞の清尾淳さんがやってきた。石川県出身の35歳。働き盛りで自信に満ちあふれ、余談ではあるが、頭には黒々とした髪も乗っていた。この日こそ、清尾さんにとって「運命の日」だった。

 この会議には、佐藤さんのアドバイザーとして私も同席した。佐藤さんがどんなものをつくりたいか、簡単に説明すると、清尾さんは、「だいじょうぶです。そういうのは得意です」と答えた。これが「運命のひと言」だった。ナビスコカップの初戦までもう2カ月を切っている。その場で具体的なページ割や内容の話が進められた。

 最も苦慮したのは、相手チームの情報、記事だった。私は、どのクラブにも、レッズなら埼玉新聞にあたるその地方の地方紙があるはずだから、そこに頼んだらどうかと提案した。しかし佐藤さんは、「地域によって、地方紙のJリーグへの思い入れが違うらしい」と、否定的な見方だった。そこで次に提案したのが、『サッカー・マガジン』への依頼だった。編集部には全クラブの担当者がいて、情報はもっているはずだ。その担当者に順番に書いてもらったらどうか――。その場で編集長の千野圭一さんに電話をかけると、即座に「いいですよ」と言ってくれた。このひと言で、私の「逃げ」は完了した。

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