28年前の夏。JR田町駅ちかくの一室で、ある重要なミーティングがおこなわれた。現在まで
続く浦和レッズのマッチデー・プログラム創刊に向けての話し合いだった。その仕事の過酷さと重責をよく知る大住さんのとっさのひと言から呼び寄せられたのが、当時は埼玉新聞にいた清尾淳さんだった。そして清尾さんは、今日もその編集をつづけている――。
■1992年の素晴らしい決断
これまでの人生を顧みて、「われながら素晴らしい決断だった」と自慢できることが、たった2つだが、ある。
そのひとつは自動車運転免許を取らなかったことだ。大学生になったころの私は、飲酒と同様に、運転免許も誰でも自然に取るものだと思っていた。そこで、ひと夏アルバイトして貯めたお金をすべてつぎ込んで、大学の近くの自動車学校に入学した。そして1週間、せっせと授業や実習に通った。だがある日、教習所内のコースを運転しながら、私は奇妙な思いにとらわれた。この大きな車を、この私が動かしている。ハンドルを握り、アクセルを踏み、走らせている。それが信じられなかった。その瞬間、大きな恐怖が襲ってきた。
「必ず事故を起こす」――。恐怖は、その確信だった。事故を起こした結果、自分がケガをしたり、ひどければ死んでしまっても、自業自得だから仕方がない。しかし他人にケガをさせたり命を奪ってしまうなど、堪え難いと思ったのだ。だからその日限りで教習所に通うのはやめた。少なくとも数万円をドブに捨てた形だったが、後悔はしなかった。そして後年、多くの友人から、私の人生で最も良い決断だったと評価された。
もうひとつの「素晴らしい決断」、それは1992年の7月のことである。Jリーグのクラブがプロとしての興行スタートに向けて最終準備にかかっていたころの話だ。私は、あるクラブからの「マッチデー・プログラムの制作を担当してほしい」という依頼を断ったのである。
あるクラブとは、浦和レッズである。
このクラブとのつきあいは、その2年前の夏、1990年、日本サッカーリーグ(JSL)で4回の優勝を誇る「三菱サッカー部」が、三菱重工から三菱自動車に移管されたときからだった。移管にともなって、三菱自動車で人事の仕事をしていた佐藤仁司さんがチームのマネジャーに就任した。佐藤さんは学生時代に欧州にサッカーを見に行ったときに『サッカー・マガジン』に紀行文を寄せてくれたのを機に知り合い、短期間アルバイトをしてもらったこともあった。その佐藤さんから「プロ化に向けたチームのマネジャーになるので、いろいろと助けてほしい」と電話がきた。私は二つ返事で引き受けた。