Jリーグ時代のラジオ中継

 1993年にJリーグが始まったとき、ラジオではニッポン放送が独占中継権を獲得した。それまでも、ニッポン放送は日本サッカーリーグや高校選手権、天皇杯、日本代表戦などの実況中継を行っていた。プロ野球中継の「ショウアップナイター」がこの局の看板番組だったが、プロ野球のない冬季には積極的にサッカーを中継し、小林達彦さん、小野浩慈さんなど、経験豊富なアナウンサーももっていた。

 しかし1993年5月15日、歴史的なJリーグの開幕戦、ヴェルディ川崎対横浜マリノスを任されたのは、九州朝日放送から2カ月前に移籍してきたばかり、33歳の師岡正雄さんだった。師岡さんは1993年のワールドカップ予選(ドーハの悲劇)や、1997年のワールドカップ予選(ジョホールバルの歓喜)も担当、その後はプロ野球中継が中心となっていく。

 師岡さんの後を継ぐようにニッポン放送の「サッカー・エース」となったのが煙山光紀さんである。ラジオたんぱ、テレビ北海道でキャリアを積んできた煙山さんは、北海道時代に「スポーツをやりたいなら、アイスホッケーで勉強しろ」というアドバイスを受けた。プレーもパックの動きも他の競技とは比較にならないほど速いからだ。煙山さんは放送に関係なくアイスホッケーの試合に通った。そして師岡さんから1年遅れ、1994年に31歳でニッポン放送に入社、アイスホッケー仕込みの軽快な話しぶりがJリーグのスピードにマッチした。2002年ワールドカップでは、日本の歴史的なワールドカップ初勝利、日本対ロシアのラジオ実況を担当した。

 「ポジション」があるといっても、チームとして右に左に、そして前に後ろにと動き、選手も流動的に入れ替わるサッカー。ラジオ中継を聞くには、「基礎知識」とともに相当な「想像力」を必要とする。煙山さんは、あるとき、聴取者からこんなことを言われたという。「鹿島アントラーズの放送はよくわかるけど、トヨタカップはまったくわからなかった」。

 その聴取者は、当然、鹿島ファンだったのだろう。鹿島の試合なら、選手名を聞くだけで、顔も体型も得意なプレーも知っており、互いの位置関係も想像がつく。だからラジオ中継を聞くと、試合の状況が生き生きと浮かんでくる。しかしなじみのないチーム同士の試合の場合、名前を呼ばれても、さっぱりわからないというのだ。南米でラジオ中継に人気があったのは、「基礎知識」により「想像力」が容易に働いたからだろう。

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