■ラジオ実況中継の黄金時代
私が最初に第2次世界大戦前のサッカー中継について話を聞いたのは1994年のことだ。1930年の第1回大会からワールドカップを欠かさず取材してきたというディエゴ・ルセーロ(ウルグアイ、当時93歳)と話したときだった。彼は将来を嘱望されたサッカー選手だったがひざの故障で引退、29歳で迎えた第1回ワールドカップは、ラジオのコメンテーターとして取材したのだと話してくれた。その話によって、少なくともウルグアイ国内では、第1回ワールドカップの「実況中継」があったことを知った。ラジオの歴史を調べると、1930年は、ワールドカップだけでなく、ラジオにとっても、放送が始まって間もない「黎明期」だったことがわかる。
おそらくテレビなどない家庭が多かったためだろう、1970年代のブラジルは「ラジオ天国」だった。私が初めてブラジルで取材した1977年、リオデジャネイロで行われるブラジル代表の試合には、全国各都市のラジオ局が中継にやってきていた。彼らはスタンドのブースで中継放送をするコメンテーターとは別に自分のマイクをもち、どこから引いてくるのか、おそらく数百メートルのコードをひっぱりながら、ピッチに行ったり、更衣室に行ったり、走り回っていた。
100人を超すラジオ記者がそれぞれのコードを引っぱっているのだから、ピッチに通じる通路には100本を超すコードの束が入り乱れている。彼らは手にしたコードを引っぱって誰彼となくマイクを突きつける。試合中にはブラジルが攻めてくるゴール裏に陣取り、得点を決めた選手のところに走り寄ってその叫び声を入れたり、ときにはCKをける直前の選手の口元にマイクを突きつけたりしていた。そして試合が終わると、ロッカールームにはいりこみ、バスタブにつかっている選手にマイクを突きつけるのだ。
スタンドのブースには、試合を中継するコメンテーター(日本で言えばアナウンサー)が立て板に水を流すように話して試合状況を伝えるが、彼のほかにもう2人がマイクを手に控えている。ひとりはいわゆる「解説者」で、コメンテーターの話が切れたとき、5分にいちどほど登場して、早口に、そして手短かにチームの問題点などを解説する。
そして残る1人は、「CM係」である。アシスタントが100枚近くのA5判ほどのカードの角をクリップで止めたものをもっている。GKやCKで少し長めに試合が止まる瞬間を見のがさず、CM係はカードに書かれているCMを大げさな抑揚で読む。そして1枚分(1社分)を読み終わると、アシスタントがすかさずカードをめくり、新しいCMを読むのである。このCMを、とにかく90分間のうちに読み切るのが彼らの仕事であり、ラジオ局の収入だった。