本田圭佑「8か国目」移籍で振り返る「開拓者の歩み」と「最後の日」の画像
ボタフォゴ時代の本田圭佑 写真:アフロ

 常に戦い続けてきた男だ。プロサッカー選手、実業家とさまざまな顔を持つが、ツイッターのプロフィールには、英語で「挑戦者」と記している。永遠のパイオニア、本田圭佑が新たなチャレンジを創出した。

 日本を飛び出してから、欧州、中米、オセアニア、南米と世界を渡り歩いてきた本田が、ヨーロッパへと舞い戻る。選んだ地は、大航海時代の主役であるポルトガル。実にプロサッカー選手として8か国目、9番目となるポルティモネンセで新たなユニフォームに袖を通す。「どれだけ実績を積み重ねても、トレーニングのキツさは一切変わりません。その本質を追及し続けようと思います」。

 気持ちを引き締めるように、ツイッターでそうつづった。

■目の前に立ちはだかり続けてきた壁

 本田が戦い続けてきた理由がある。目の前に、壁が立ちはだかってきたからだ。 育成に定評のあるガンバ大阪のジュニアユースで育ち、Jリーグ年間MVPにも輝いた家長昭博らとプレーしたが、ユースへの昇格はかなわなかった。星稜高校を経て見事プロ入りし、オランダ移籍を果たしたが、半年後にそのフェンロは2部リーグ降格の憂き目に遭った。

 だが、屈辱を味わうたびにさらに強くなって立ち上がってきた。大阪から越境入学した星稜高校では、石川県勢初の4強入りを達成。複数のオファーを呼び寄せつつ、名古屋グランパス入りを決めた。 フェンロが2部落ちした際には浦和レッズからのオファーも届いたが、本田は欧州残留を選択。新たに背番号10を背負うと、そのプレッシャーをバネに変え、16得点を挙げる活躍でチームを2部優勝へ導く。この「結果」にこだわる姿勢が、その後の歩みに大きな影響を与えていく。

 その最たる例が、2010年の南アフリカ・ワールドカップだろう。大会前に評判を大きく落とした日本代表で、岡田武史監督は布陣を変更し、メンバーも大きく変えた。その4-3-3のフォーメーションで1トップに起用された本田は、未体験のポジションでも体の強さを活かして起点となるのみならず、初戦でゴールも決めてみせた。

「昨日が誕生日だったので『持ってるな』と」。

 一躍ヒーローとなった男は、流行語にもなるコメントを残すと、自らの発信力にも目を向けていくこととなる。

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