■ミランで自ら背負い込んだ重圧
オランダは、欧州での成功への第一歩となる土地だった。2010年1月には、ロシアへと移籍する。CSKAモスクワは600万ユーロ(当時のレートで、約7億8000万円)を支払ったとされているが、本田のクラブ変遷において唯一移籍金が発生した機会でもあった。 ロシアでの本田は、苦しみを味わった。プレーそのものではない。自身が身を置く環境が、本田を縛り付けた。
2012年1月には、イタリアのラツィオから獲得オファーが届いた。2013年の夏にも、同じイタリアのミランが獲得に動いたが、移籍は実現しなかった。移籍専門サイト『Transfermarkt』によると、当時の本田の市場価値は2000万ユーロ(当時のレートで約26億円)。イタリアの2クラブが提示した移籍金に、CSKAモスクワが首を縦に振らなかったのだ。
それでも、実直に続けるプレーが夢を実現させた。契約期間が満了となり、本田は晴れて2014年1月、ミランへの移籍を果たしたのだ。小学校の卒業文集に記したとおり、セリエAでの背番号10をつかみ取った。
名門でのしかかってくる重圧をさらに自ら大きくしたわけだが、「10番をつけるチャンスがあって、違う番号を選びますかという話。そのチャンスが目の前にあったので、喜んで自分から要求しました」。
小学校時代の本田、そしてプロとして初めて背番号10を背負ったオランダ時代。選手として大きくなりながらも、本田の軸にブレはなかった。
だが、その後の本田の市場価値は下落を続けていく。名門のエースナンバーを背負う資質に疑問の声も上がった。ミラン入団の半年後、「目標は優勝」と公言して臨んだブラジル・ワールドカップ(W杯)ではあえなくグループステージ敗退。ミランでの最後のシーズンは、リーグ戦8試合出場にとどまった。