■サッカーと新聞記者のとても親密な関係

 それにしても、南米サッカー連盟(CONMEBOL)の「割り切り方」は度を超している。たしかに、放映権契約を締結したテレビ以外のメディアは取材の対価を支払わない。そのくせ、ともすれば、いろいろな要求で試合の主催者に多額の出費を強いる。だがCONMEBOLのやり方は、テレビ以外のメディア、新聞、雑誌、通信社、そしてインターネットといったものがサッカーにもつ意味をまったく理解していない。サッカーが始まったころ以来、新聞を中心としたメディアとサッカーは切っても切れない関係にあり、今日的な言い方をすれば「ウィン・ウィン」の関係だったからだ。もちろん、当時はテレビはおろかラジオもまだない。

 サッカーが誕生したのは19世紀の半ば、1863年のことである。その急速な人気拡大、プロ化などの発展は、当時の英国社会の変化と大きく関係している。その前の18世紀の後半からの産業革命によって都市に人口が集中するようになり、1850年には「工場法」の改正により土曜日午後が休みになった。その「余暇」に人びとはスポーツを楽しむようになり、フットボールはその中心になった。

 そしてサッカーの人気上昇とともに、新聞も急成長の「黄金時代」を迎えるのである。そのすべてが、「産業革命の落とし子」のようなものだった。新聞は古くからあり、13世紀の活版印刷の発明により欧州では出版文化が栄えていた。しかし週に何回も、あるいは毎日、何万部もの新聞を発行するには、紙の大量生産というバックグラウンドが不可欠だった。その実現が1850年代のことだった。

 そして英国社会において新聞を「大衆化」させたのは、スポーツ、なかでもサッカーの報道であったのだ。大衆が最も関心をもつサッカーの試合を報じることによって、新聞は急速に販売数を増やし、文字どおり「マスメディア」になっていく。そしてサッカーも、新聞に報じられることによって英国文化の重要な一面であると認められ、発展していくのである。

 19世紀半ば、急速に発展する新聞産業のなかで、ジャーナリストという職業が生まれる。そして彼らは、時期を同じくして商業生産が始まったばかりの「タイプライター」を武器に、さらに新聞を充実させ、それによってサッカーの人気をもり立てていくのである。

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