■ガラパゴスだった日本の新聞

 ワールドカップを時系列の目盛りに使えば、「タイプライターの時代」は、1978年大会か、せいぜい1982年大会までだった。1980年代には、欧州の新聞社では電話線を用いたデータ通信でスタジアムの記者席と本社のコンピュータを結びつけ、タイプライターを過去のものとした。

 1984年の欧州選手権フランス大会で、隣に座ったイタリア人記者が小さなワープロ専用機で原稿を打ち、ハーフタイムに「カプラー」(データを音声信号にして送る装置)を使って原稿を送っているのを見た。このころにはファクスが普及していたのだが、この方法だと、ファクスよりずっと速く、しかも本社にはいってからの処理もスムーズだと聞かされて、なるほどと思った。ただ、スタジアムはハーフタイムもサポーターの歌声が高く、「機械がサポーターの歌まで拾ってしまう」と、困り果てていたが。

 1986年ワールドカップ・メキシコ大会の時点では、欧州の主要国の大きな新聞社は完全に「ペーパーレス」になっており、自分のデスクのパソコンと編集者のパソコンがラインでつながって瞬時に原稿が送られ、スタジアムからも電話線を経由して瞬時に原稿が送られるようになった。タイプライターは完全に過去のものとなり、記者たちはまだあまり軽くなっていなかったノートパソコンをスタジアムにもっていくようになっていた。

 しかし日本では、このころようやくファクス送信が中心になり、1990年ワールドカップ・イタリア大会では、多くの新聞社がファクスで原稿を送っていた。日本の新聞社の原稿用紙は、「デスク」が直しを入れやすいようにB5判の紙1枚に15字詰め5行というようなものが多く、しかもプレスセンターのファクスサービスでは通信時間ではなく枚数で課金した(しかも日本へは1枚約3000円という法外な額だった)から、ある記者はわずか50行の原稿を送っただけで3万円も支払わされ、青くなっていた。後に彼らは、「マス目」を無視し、A4判の白い紙1枚にぎっしりと原稿を書いて送るようになった。

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