■追い剥ぎにあったカメラマン
ワールドカップなどの大会では、会場内にはいる人にはすべてADカードが発給され、その着用が義務づけられる。カードには、名前や所属、イベントでの役割、そして立ち入ることのできるゾーンが明示されている。私のような取材者だけでなく、大会役員も、ボランティアスタッフも、選手も、監督も、チームスタッフも、全員着用しなければならない。
いまや大企業では、社員証を首からぶら下げたり胸につけたりしているし、そのまま昼食に出かける人も少なくない。しかし冷静に考えてみれば、「名札」をつけるなんて、小学生みたいだ。他の人は知らないが、私はちょっぴり恥ずかしい。ちなみに、最近は名札をつけない小学校も増えてきており、少なくとも登下校のときには外させる学校が多いという。もちろん、防犯上の理由だ。
だが大会を取材するには不可欠なADカード。紛失でもしようものなら、以後は取材できなくなる。盗難に遭ったら、警察で「被害証明」をもらわないと再発行してもらえない。ワールドカップなどの重要な取材に行くと、ADカードは「命の次」に大切なものとなる。
1998年、ワールドカップ・フランス大会の開幕前日に、私の友人のひとりのカメラマンが「追い剥ぎ」に遭った。取材先に行こうとしたところタクシーがまったくつかまらず、目の前に停まった白タクに乗ってしまったのだ。郊外に連れていかれ、運転手と、助手席に乗っていた若い男に身ぐるみはがされた。もちろん、プロ用の高価なカメラが犯人たちの最大の狙いだったが、財布、パスポートばかりか、念が入ったことに、シャツもズボンも奪い取ったという。
■仕事の腕は外見ではわからない
「殺されるかもしれない」という恐怖のなかで、彼はプロ意識を目覚めさせ、頭脳をフル回転させた。カメラは日本からもってきてもらえばいい。あと1カ月はフランスにいなければならないので、パスポートも当面なくても困らない。しかしADカードだけは、失ったら当面仕事ができず、歴史的な日本のワールドカップ初戦を撮り逃してしまう……。
「これもやるから、そのカードだけは返してくれ」
彼は、下着以外で唯一残っていたクツを脱ぎ、差し出しながら強盗たちに懇願した。だがその靴があまりにも汚かったので、彼らは顔をしかめて受け取らず、舌打ちしながらADカードを投げてよこしたという。
パンツ1枚に強盗も顔をそむけるほど汚れきったクツをはき、上半身は裸という情けない姿ながら、「FIFAワールドカップ・フランス1998」のロゴがはいった立派なADカードを首からぶら下げ、強盗たちが去った後、彼は人気のないパリ郊外にひとり立ち尽くした。それが、このカメラマンの「フランス98」のスタートだった。
こうした苦難に遭いながらも、彼は見事にその痛手から立ち直った。この大会で、私は日本サッカー協会の公式大会写真集を編集する仕事をしていたのだが、フリーランスのカメラマンたちに広く呼びかけ、大会で撮影した「選り抜き」の写真を提供してもらって、そこから使用写真を選ぶというぜいたくな方法をとった。予算が豊富な本だったからできたシステムだった。その写真集の表紙を飾ったのは、黄金のFIFAワールドカップを黒い腕と白い腕が持ち上げた素晴らしい1枚で、「パンツ1枚と汚れたクツ」のカメラマン氏が提供してくれたものだった。見上げたプロ根性というものだろう。