■企業名を胸につけることの意味を問う
バイエルンが1974年に「adidas」を胸につけたころから、ユニホーム広告はファンにとって身近なものとなった。たとえば外国みやげで有名クラブのユニホームを買って帰ってきたとき、広告のないユニホームだったら、もらった人の喜びは半減してしまうだろう。広告がはいってるから本物っぽく、スターたちになった気になれる。「バッタ物」のユニホームでさえ、きちんと広告入りのものになっている。それでこそ、広告主が大金を出す意味があるというものだ。いまでは、クラブ・ユニホームに広告は不可欠なもの、「なければ寂しい」ものにまでなったのである。
だが、私は、「自分はサッカーをプレーして勝利をチームにもたらすところを見せて生活している。まるで奴隷のように雇い主から人格など認められず、サッカーとは無関係な宣伝広告に使われるのはまっぴらだ」というオブドゥリオ・バレーラの姿勢を忘れ去ることはできない。
現在のプロ選手は、広告つきのユニホームを不思議とも思わない。何より、契約書には「クラブにより支給されたユニフォーム一式およびトレーニングウェアの使用」が義務づけられているから、バレーラのようなことをしようとしたら、相当な罰金を覚悟しなければならないだろう。
しかし私は、広告宣伝活動に関与するということは、その広告主の活動や商品にまで責任をもつことであると考えている。個人としてテレビCMに出演することだけでなく、スポンサー名や商品名を、たとえチームとの契約であろうと、自分自身の胸につけてたくさんの観衆の前でプレーし、テレビを通じて自分の顔やプレーとともにそれが少年少女を含んでサッカーを楽しむ多数の人びとの目に触れるなら、なにがしかの責任が伴ってしかるべきではないか。
「このスポンサーの活動を私は支持しないから、他のクラブに移籍する」という決断を下す選手が出てきたら、私は断固応援する。