■バイエルン・ミュンヘンが世界を目覚めさせた
だが苦しくなる一方のクラブ財政に新しい活力をもらたす道は「コマーシャリズム」以外になかった。1960年代、クラブはスタジアムに広告看板を入れて収入を増やしていったが、それもいっぱいになると、次のターゲットがユニホームであることは自明の理だった。そして、フランス、デンマークといったプロ基盤の弱い国で、ユニホーム広告が一般化していった。「先進国」フランスでは数も大きさも制限がなかったので、ユニホームは大小のロゴマークでいっぱいになった。まるで自動車レースのF1カーのようだった。当時はプリントではなくワッペン形式だったので、さぞ重いユニホームだっただろう。
1973年3月、西ドイツのブラウンシュバイクが新しいクラブエンブレムを大きく胸の中央につけてブンデスリーガのシャルケ04戦に出場した。クラブの伝統のエンブレムには現在のチェルシー(イングランド)のものにそっくりなライオンが描かれていた。しかしこのときは、それを鹿の角に置き換えたのだ。この鹿の角のマークは、地元の有名なリキュールメーカー「イエーガーマイスター」のものだった。ブラウンシュバイクは1試合10万ドイツマルク(当時のレートで約1150万円)で伝統のエンブレムを売り渡したのだ。
この「事件」は大きな論争となり、地元開催のワールドカップが終了した直後、1974/75シーズンから、ブンデスリーガはユニホーム広告を解禁した。ブラウンシュバイクのエンブレムは無事ライオンに戻った。そしてリーグきっての強豪で、フランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーをはじめとしたワールドカップ優勝のスターを並べたバイエルン・ミュンヘンは、胸に真っ白な「adidas」の大きなロゴをつけてプレーするようになった。
フランスなどの例から、ユニホーム広告を「汚いもの」と見ていた欧州のサッカー関係者たちの「目」が変わるのはこのころではないか。いまから見ると「練習着か?」というようなバイエルンのユニホームだったが、チームが強く、世界的なスーパースターがプレーしていたこともあってたちまち人気となった。真っ赤なユニホームの胸にすっきりとした「adidas」のロゴが1つだけはいっている姿は、バイエルンの「クラブ・アイデンティティー」にも見えるようになった。