■フロンターレならではの練習法とは
――当日の子どもたちが書いた目標シートは、今でもお手元に?
残念ながら、僕の手元にはありません。薫たちの代はすべて子どもたちに返していたんじゃないかな(笑)。たしか、薫の目標シートには「2012年のロンドン五輪で代表候補に選ばれる」「2018年のロシアW杯で日本代表になる」という文字があったのは覚えています。なので、薫にはその時々にどのチームに所属しているのかまで書かせて、夢物語にしないようにしました。それに、薫たちの世代には、2020年の東京五輪を目標にすることはマストで書かせていましたね。
――フロンターレでは、他にどのような思考法を教えていたのでしょうか?
常に考える習慣を身につけられるよう指導していましたね。僕は、練習で常に「なぜ?」と選手に問いかけました。その問いに選手が何か答えを出すと、それに対してさらに疑問をぶつける。そういったやり取りをフロンターレの練習で行っていました。特に、板倉(滉)がいた1期生の世代は聡明な子ばかりで、薫のいいお手本になってくれましたよ。その甲斐あって、練習では常に子どもたちからの要求が飛び交っていたので、外部の方々が想像するサッカーの練習とはちょっとかけ離れていたと思います。
――そんな質問のキャッチボールの中で、特に印象に残っている選手はいますか?
間違いなく、(久保)建英ですね。彼は、入団から1年半後にはスペインのバルセロナへ行ってしまったので、僕が指導したのはたった半年間なんですが、当時から伝えるまでもなく、ごく当たり前に僕たち大人と会話していました。もちろん、薫をはじめ、他の子たちも慣れてくると会話ができるようになって、自然と、僕の意見に対して自分の考えを伝えようとするようにもなるんですが、最初からそれができていたのは建英だけ。別格でした。
第3回では、世界的ドリブラーを作る足指の使い方に迫る
たかさき・やすし
1970年4月10日、石川県生まれ。大学卒業後、サッカー指導者の道に進むと、母校の茨城県立土浦第一高校、筑波大学、東京大学のコーチを歴任。その後、2002年にJリーグ・川崎フロンターレの下部組織のコーチに就任し、2006年には川崎フロンターレU-12の立ち上げにかかわり、2011年まで監督を務めた。現在はジュニアユースクラブ・フガーリオ川崎のアドバイザー、川崎市立橘高校コーチ、尚美学園大学コーチとして、ユース年代の育成に携わっている。