ワールドカップ・カタール大会出場の立役者であり、“三笘の1ミリ”が世界的に話題となった三笘薫。世界を沸かせ続ける彼の代名詞“ドリブル”の原点は、ジュニア時代にあったという。そんな彼の少年時代に迫るべく、川崎フロンターレ・ジュニアの監督を務めた高崎康嗣元監督(※正式表記は高ははしごだか、崎のつくり上部は立)へのインタビューを敢行。三笘薫、久保建英、板倉滉、田中碧……のちの日本代表を多数育てた名監督は、当時を振り返り何を語るのか――。
必読の全4回!
■印象的だった三笘少年の姿
――川崎フロンターレ・ジュニアユースは、2006年に発足しました。当時を振り返っていかがですか?
僕はもともと、東京大学の蹴球部で3年間ヘッドコーチを務めていました。その後、ご縁があって、2002年にフロンターレに就職し、ジュニアチームの監督に就任することになりました。川崎市のサッカー協会からジュニアチームの立ち上げを打診され、それをクラブに持ち帰って、いろいろと準備を始めたのが2005年。それから、地元クラブ約70チームの責任者の方々と話し合い(実質30チームぐらいと)をし、僕らの考えをしっかり伝えたうえで、2006年にU-10という形でスタートしたんです。
――U-12ではなくU-10だったのには、何か理由でも?
地元クラブに所属する選手の引き抜きなどが心配という声があったので、すぐに卒業してしまう小学6年生ではなく、4年生から育てることになったんです。かつて、川崎市はプロスポーツが根付かない地域と言われていた時代があって、そうした中、川崎フロンターレができた。様々な経緯がある中での立ち上げだったので、我々も地元の方々に応援していただけるよう細心の注意を払ったのを覚えています。
――そして、チーム立ち上げに至り、第1期のセレクションが始まるんですね。
はい。翌年に監督を務めることも決まっていたので、僕が中心になってセレクションを行いました。第1期は、1学年100名を超える参加者がいましたよ。
――そのセレクションの中には、板倉滉選手や三好康児選手(入団は2007年)、三笘薫選手らがいたと聞きました。特に三笘選手は目が離せない存在だったそうですね。
最終セレクションで他の子たちが緊張している中で、(三笘)薫は、まるで遊んでいるかのように純粋にサッカーを楽しんでいたんですよ。突然、ドリブルをやめたと思ったら、ボールをポンと蹴ってケタケタと笑っている。そんな姿が、とても印象的でした。あと、ボールに向かう集団には加わらず、その外側でこぼれ球を拾っていましたね。その動きを見て、何か狙いがあるのかなと、とにかく目が離せない子でした。