■“高速ドリブル”の片鱗と世界を目指す指導
――セレクションでは計14名が合格。三笘選手は「主に小学4年生が受かっていて、その中で、小学3年生の自分が受かったのは運がよかった」と話していました。
薫に限らず、その世代は良い選手がたくさんいたので、選考に悩みましたね(笑)。 彼のライバルだった岸晃司というズバ抜けた選手もいましたから。ただ、小学4年生を中心に合格を出していた中で、小学3年生が3人合格し、その中で薫を取ったのは、ひとつ上の世代にも通用する何かを感じとったからです。特に、相手をギリギリでかわす時のプレーや初速の早さなどは、光るものを感じていました。
――初速が早いというのは?
スタートの1歩目が早いんです。相手の動きを読む力はもちろん、身体能力が高くて、初速からグンとスピードに乗れる。サッカーは長距離よりも、一瞬の動き出しが早いほうが得なスポーツなので、そういった才能を持っているのは非常に大きい。薫は、他の子と比べても秀でていました。
――現在の三笘選手の代名詞“高速ドリブル”の片鱗だったのでしょうか?
そうですね。当時のセレクションで見せた能力から、練習を見ていくうちに今の薫のプレーの姿は容易に想像がつきました。薫はもちろんのこと、子どもというのは、自然と自らの長所を伸ばします。指導をしていく中で、こんな選手になるという予測はなんとなくできるんです。特に薫は、身体能力と学習能力が高かったので、練習をすればするほど目に見えて成長しましたね。
――三笘選手は当時を振り返って、「ちゃんと目を見て人の話を聞きなさい」と入団初日に叱られたことが、今でも忘れられないと話していました。
サッカーができる、できない以前に、人としてこうありなさいという部分を伝えてきたつもりです。彼らが誰かに応援されるような人になるために、間違った常識を植え付けたくない。当時から世界を見据えて、「世界を目指せ」「憧れられる人間であれ」というのをキーワードに、人の話をちゃんとした姿勢で聞く“傾聴力”を、口酸っぱく伝えていましたね。
第2回では、三笘薫、久保建英らを育てた“なぜ”を突き詰める指導法に迫る
たかさき・やすし
1970年4月10日、石川県生まれ。大学卒業後、サッカー指導者の道に進むと、母校の茨城県立土浦第一高校、筑波大学、東京大学のコーチを歴任。その後、2002年にJリーグ・川崎フロンターレの下部組織のコーチに就任し、2006年には川崎フロンターレU-12の立ち上げにかかわり、2011年まで監督を務めた。現在はジュニアユースクラブ・フガーリオ川崎のアドバイザー、川崎市立橘高校コーチ、尚美学園大学コーチとして、ユース年代の育成に携わっている。