大住良之の「この世界のコーナーエリアから」連載第74回「古橋亨梧選手のために、セルティックについて知っておくべき8つの事柄」(3)世界で最も過激なダービー「オールドファーム」での中村俊輔の伝説的ゴールの画像
白と緑に塗り分けられたセルティックの本拠地・セルティック・パークの観客席(c)Y.Osumi
【画像】壮大なスタジアム、クラブ創設者ほかセルティックにまつわる写真
あの「ユール・ネバー・ウォーク・アローン」をヒットさせた、ジェリー&ザ・ペースメイカーズのヴォーカリスト、ジェリー・マースデンが今年の1月3日に亡くなった。78歳だった。この歌はリバプールFCのサポーターソングとして知られるが、スコットランドのセルティックFCの熱狂的サポーターたちは自分たちが先に歌ったと主張している。その名門クラブに移籍していきなり立て続けにゴールを挙げている古橋享梧は、このことを知っているだろうか。サッカージャーナリスト・大住良之による今回の超マニアックコラムは、古橋の背番号にちなんで、世界中のサッカーファンから一目置かれるグラスゴーの古豪についての8つのストーリー。
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■【その6 ジミー・ジョンストン】

クラブレジェンドのジミー・ジョンストン。(c)Y.Osumi

・伝説となった162センチの快速ウイング

 セルティックパーク・スタジアムの正面に、創立者のワルフリッド修道士、そしてジョック・ステイン監督とともに銅像があるのは、クラブのレジェンドであり、セルティックの攻撃的サッカーを象徴する「レジェンド」のジミー・ジョンストンである。162センチという小柄ながら、切れ味鋭いドリブルで突破、右サイドから次々とチャンスをつくった。

 1944年にグラスゴーの西の郊外にあるビューパークという町で5人兄弟の末っ子として生まれ、小さなときからミルク瓶を並べてはドリブルするというひとり遊びに熱中していた。セルティックのボールボーイにという魅力的な誘いもあったが、地元の少年チームでプレーすることを選んだ。そしてマンチェスター・ユナイテッドの少年チームからの誘いを受けながらも、自らセルティックでプレーすることを選び、13歳のときにセルティックにはいった。1軍デビューは18歳の1963年3月だった。

 1965年の夏、着任したばかりのステイン監督はジョンストンのプレーを見て「個人プレーに走りすぎる」と低い評価を下した。しかし時を経ずジョンストンはステインが求めるチームへの献身を理解し、欠くことのできない存在となる。そしてステインとともに、リーグ9連覇、欧州チャンピオンズカップ優勝という偉業を成し遂げるのである。

 この間、セルティックでのリーグ出場は308試合、得点は82。スコットランド代表では1964年から10年間プレーしたが、23試合、4得点と、これも飛び抜けた数字ではない。しかしジョンストンは記録ではなく、サポーターの記憶に残る選手だった。小さな体いっぱいの闘志、相手ゴールに向かっていく恐れを知らない姿勢は、セルティックの伝統そのものだったからだ。

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