■なぜヨーロッパに行かなかったのか
Jリーグに「七不思議」があるとしたら、そのひとつは、あれほどの能力をもった遠藤保仁や憲剛が欧州のクラブでプレーすることなくプレーのキャリアを終えようとしていることだ。
もちろん、憲剛に欧州の強豪からのオファーがなかったわけがない。2010年の12月には、ドイツのボルフスブルクから、トルコのカイセリスポルから、そして年が明けて2011年の1月にはフランスのパリ・サンジェルマンから好条件のオファーが届いた。このとき憲剛は30歳。通常なら、欧州のクラブが欲しがる年代の選手ではない。しかしそうした面を差し引いても、憲剛のなかに欧州のサッカーが必要とする能力を見いだした人びとがいたことに注目すべきだ。
だが熟考の末、憲剛は川崎に残ることを決める。それはもちろん、川崎のサポーターにとっては幸運だった。2012年から2016年まで監督を務めた風間八宏の下、憲剛の能力はさらに磨かれ、チームそのものが憲剛のレベルに近づいたことにより、憲剛と川崎は他にはないサッカーを作り上げた。そして2017年に風間を引き継いだ鬼木達の手によって、憲剛は夢にまで見たJリーグ優勝を手中にするのだ。それも2017、2018と2シーズンも連続して。
プロサッカー選手としての憲剛を考えるとき、忘れてはならない要素がある。それは「サポーターとともにプレーする」ということだ。CKをけりに行くとき、憲剛はよくスタンドのサポーターに向かって両手を上に向けて振り、「もっと盛り上げてくれよ」という動作をする。その瞬間にスタンドが爆発するように沸くのは言うまでもない。ホームの等々力での勝利後には、自らハンドメガホンを手にしてサポーターに話し掛けることも珍しくはない。
川崎の等々力競技場は、現在のJリーグではどんどん少なくなりつつある陸上競技型のスタジアムである。トラックがあり、ゴール裏からはさらにスタンドが遠い。しかしここで試合を見ていると、スタンドが遠いという感じはまったく受けない。それはチームとサポーターに強い一体感があるからだ。このサポーターの存在も、憲剛をここにとどまらせたひとつの要員だったに違いない。