大住良之の「この世界のコーナーエリアから」 第30回「日本サッカーの“出島”だった『ダイヤモンド・サッカー』」の画像
2002年2月に発売された「ダイヤモンドサッカー」のタイトル曲CD。第1放送のときに英国の元番組「マッチ・オブザデイ」のタイトル音楽だった『ドラム・マジョレット』が、20年間使われた。英国の作曲家アーノルド・ステック(1905~1974)が作曲した曲で、実は英国で「マッチ・オブザデイ」と言えば別に非常に有名な曲があるのだが、このシーズンだけ『ドラム・マジョレット』が使われていた。収められているのは1曲だけだが、岡野俊一郎と金子勝彦の長大な対談と「ダイヤモンドサッカー」の全試合リストがついており、資料的価値は高い。 。(c)Y.Osumi
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あなたは「ダイヤモンドサッカー」を知っていますか。まだ、この国が世界のサッカー情報にアプローチできていないころに始まった、日本初の海外サッカー番組だった。テレビ東京はまだ、東京12チャンネルという名だった。それは、まさしく「世界に開かれた窓」だった。

■1968年、それは静かに始まった

 共同通信のサッカー担当に出島剛さんという非常に優秀な記者がいる。だが今回のタイトルの「出島」は彼のことではない。もちろん、江戸時代の初期に長崎につくられ、当初ポルトガルとの、そしてその後ずっとオランダとの交易の場となった人工島「出島」のことである。「鎖国日本」は、約250年間、この小さな島のまるで針穴写真機の針の穴ようなところを通じて、かろうじて「世界」との接点を保っていた。

 1968年から1970年代を通じて、日本のサッカーが世界大会のアジア予選で負け続け、親善試合でしか世界との交流ができなかった時代。それは同時に、インターネットもなく、海外からのサッカーの情報が「鎖国日本」のように限られていた時代でもあった。そうした時代に、まるで「出島」のように「世界」に向けられて開かれた小さな窓が、「ダイヤモンドサッカー」。東京12チャンネル(現在のテレビ東京)制作のテレビ番組だった。

 1964年の東京オリンピックを機に、サッカーは急激に人気スポーツとなった。翌年に日本サッカーリーグ(JSL)が誕生し、日本中に「サッカースクール」や「サッカー少年団」が生まれた。それでも、テレビでサッカーといえばJSLか不定期の日本代表の試合ぐらいしかなかった。そんな時代に始まったのが、「ダイヤモンドサッカー」だった。

 1968年4月13日土曜日、番組は静かに始まった。「イギリスプロサッカー」と題された番組は、午後3時から4時までの1時間。英国BBCの「マッチ・オブザデイ」を輸入し、三菱グループの提供で放送された。アナウンサーは東京12チャンネルの金子勝彦さん、解説は当時日本代表チームコーチでもあった岡野俊一郎さん。この番組の輸入と放送を決断したのは、東大で名FWとして鳴らし、日本代表にもなった篠島秀雄さんだった。当時、彼は三菱化成の社長であると同時に、日本サッカー協会(当時の正式名称は日本蹴球協会)の副会長でもあった。彼は大学の後輩でもある岡野さんに直接電話をかけ、「君が解説をやれ」と命じたという。

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