■1969年、世界への扉がいったん閉じた

 だが私には悩みがあった。当時の東京12チャンネルは出力が弱かったのか、横須賀市の片隅では、とても見にくかったのだ。電波を出している東京タワーから約50キロ、私の住む町は海に面していたのだが、周囲を囲む小高い丘陵にじゃまをされ、直接とらえる電波は微弱だった。そこで南側の丘陵の上に大きな「反射板」を取り付け、東京からの電波をはね返して町に注ぐという、いま考えると非常に原始的で恐ろしい方法が取られていた。かすかにはいる「直接電波」と「反射電波」の時差により、「ゴースト」と呼ばれる二重画像ができていた。

 やがて私は大学にはいり、東京の四畳半ひと間に半畳ほどの台所がついた部屋に下宿することになる。だが当時の大学生の下宿にテレビがあるわけはなく、「ダイヤモンドサッカー」を見るには、都内の親戚の家に行かなければならなかった。「ダイヤモンドサッカー」はBBCから購入した30回分の放送を終えると最終回を迎え、私が受験勉強に明け暮れていた(実際はまったく違ったのだが……)高校3年時には放送がなかった。しかし私の大学入学を待つように、1970年4月、こんどはイングランド・リーグのハイライト番組放映権を獲得したITVから輸入した番組として復活したのだ。時間は月曜日の夜10時から45分間。超人気番組「夜のヒットスタジオ」の裏番組だったが、親戚の人びとは、毎週ではなかったが、大好きな歌手の歌をがまんして私にダイヤモンドサッカーを見せてくれた。

 1970年、大学1年になった私は途方に暮れていた。入学したばかりの大学が、わずか1週間、ガイダンスを終えたばかりのところで学生運動によって封鎖されて休講になり、結局、そのまま夏休みに突入してしまったからだ。持て余した時間を、私は図書館で過ごし、司法試験のための勉強会のようなサークルの活動で過ごした(私は弁護士を志望する法学部の学生だったのだ!!)。

 その夏の最大の関心は、メキシコで行われたワールドカップだった。4年前、1966年大会の決勝戦をたまたまテレビで見てサッカー部にはいった私である。メキシコ大会には大きな関心があった。しかし当然、テレビ中継などない。日本のメディアもワールドカップが何であるか、ほとんど理解しておらず、新聞には試合結果ぐらいしか載らない。そこで私は、1カ月間、「Asahi Evening News」という夕刊の英字紙をとることにした。8ページぐらいの新聞で、最終面がスポーツだった。

 メキシコと日本は時差15時間。現地で午後の試合は、日本では朝刊にははいらず、夕刊になる。「Asahi Evening News」のスポーツ面はアメリカのスポーツ中心だったが、サッカーの記事も扱われていた。大リーグなどのニュースが少ない日には、サッカーがトップになることもあった。最も速く、そして最も詳しくワールドカップの状況を知るには、この新聞がいちばんだったのである。

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