■1993年、ついに夜明けが訪れた
結局、70年ワールドカップの放送は、翌年9月まで1年間にわたって続けられた。全32試合中、2週にわたって前後半を紹介したのが20試合。延長になった準々決勝の西ドイツ対イングランドと準決勝のイタリア対西ドイツの2試合は、延長戦も入れて3週に分けて放送された。もう1試合、延長になった準々決勝のウルグアイ対ソ連は、後半と延長だけを2週で放送した。そのほか、ダイジェストにして1週で放送された3試合を含め、32試合中26試合が日本のファンに提供された。
「東京で海外サッカーの放送が始まったらしい」という情報は、全国のファンに伝わっていた。しかし家庭用VTRなどない時代、テレビ放送というのは、その時間に電波を受信できるテレビの前に座っていなければ見られないものだった。地方のファンは諦めた。あきらめきれない一部の若者は、「東京に行けば海外サッカーを見られる」という一心で東京の大学に進学したり、また、在京企業への就職や転職を画策した。
だが、「ダイヤモンドサッカーでワールドカップの放送」が始まるというニュースは、全国のファンを居ても立ってもいられない気持ちにした。そして地元のテレビ局に嘆願書を送ったり、署名を集めたり、あるいは影響力のある人を口説いて東京12チャンネルから番組を購入するよう働きかけた。その動きは次第に実を結び、メキシコ・ワールドカップの試合は全国のあちこちで放送されるようになった。
それはまさに、「日本サッカーの文明開化」だった。「出島」からの情報が、日本の各地に時間をおかずに生の形で伝わるようになったのだ。日本のサッカーファンは「世界」を知り、そのレベルをイメージできるようになった。日本のサッカーに「実際の明治維新」が訪れるのはそれから20年以上も経たJリーグ誕生のときと言っていいが、ファン、プレーヤー、そしてサッカーに係わる人すべてがスムーズに「御一新」へと移行できたのは、「文明開化」自体が20年前から進行し、深化していたからに違いない。