■1988年、丸20年の使命を終えて

 その後、「ダイヤモンド・サッカー」は1974年ワールドカップの決勝戦を現地からの生中継で日本に送り、ブンデスリーガセリエA、リーガエスパニョーラ、そして欧州や南米の代表チームのさまざまな国際試合などへと放送のバリエーションを広げながら、「世界に開かれた窓」の役割を果たし続けた。

 それだけでなく、全日本選抜中学生大会(1978年~)、全日本女子選手権(1980年~)など、日本のサッカーの普及・振興にかかわる大会も放映。なかでも全日本女子選手権の決勝戦を、1980年(1979年度)の第1回大会から番組終了の前年、1987年の第8回大会まで放送し続けてきたことは、後のなでしこジャパンのワールドカップ優勝、そして来年スタートする女子のプロ「WEリーグ」につながり、忘れることのできない功績だ。

 実は、いま私が監督をしている女子チームの試合も、一度だけ、「ダイヤモンドサッカー」の放送に載ったことがある。1982年の第3回女子選手権決勝戦。東京のライバルだったFCジンナンを準決勝で下し、清水第八との決勝戦に進んだのだ。午前中、雨中での準決勝の泥んこ戦で力を使い果たしたのか、同じ日の午後に行われた決勝戦では大敗を喫してしまうのだが、私が監督になるのはこの2年後のことである。

 「日本サッカーの『出島』」ダイヤモンドサッカーは、まさに「明治維新」の足音が遠くに聞こえ始めた1988年3月26日、丸20年間、994回の放送を終えて幕を閉じた。この間、東京12チャンネルは1981年10月に「テレビ東京」に社名変更し、番組の放送時間もたびたび変わったが、視聴率が滅多に2%を超えないなか20年もの長寿を保ったのは、終始番組スポンサーとして支援した三菱グループの理解もさることながら、「継続によって文化となる」というテレビ局側の信念が貫かれたからにほかならない。

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