■ディエゴ・マラドーナが変えたルール
さて、ルールですね当てが義務化されたのは1990年のことだった。1980年代にHIVウイルスによる後天性免疫不全症候群(AIDS)が世界を脅かしたころ、出血をともなうケガをできるだけ少なくすることが目的だった。
それまでも、多くの選手がすね当てをし、ストッキングをひざ下まで上げてプレーしていたが、選手によってはストッキングをひどく嫌う人もいた。試合前の入場のときにはひざ下まで上げているのだが、試合が始まる前に下げてしまう選手もいた。西ドイツ代表の左サイドバックとして1974年ワールドカップ優勝に貢献したパウル・ブライトナーは、常に足首までストッキングを下ろしていた。もちろん、すね当てはしていなかった。アルゼンチン代表を1978年ワールドカップ優勝に導いたマリオ・ケンペスも「反ストッキング派」だった。
そうした選手はあまり多くはなかったが、試合の終盤になるとすね当てを投げ出し、ストッキングを足首まで下げる選手は少なくなかった。当時のストッキングは締め付けがきつく、足に疲労がたまってくるとそれを嫌い、あるいは体温の放出効率を上げようと、ストッキングを下げてしまうのだ。しかしこうしたケースも、ブライトナーやケンペスのような「反ストッキング派」も、レフェリーに注意されることはなかった。ルールで求められているストッキングは、ともかくはいていたからだ。
すね当てをしたままでストッキングを下げる選手もいた。ストッキングの上部をすね当ての内側に折り入れ、後ろは思い切って下げるのだ。これによって、すねは上3分の1ほど、ふくらはぎは半ばまで大きく露出し、足が楽になる感じがしたようだ。日本サッカーリーグ時代、こうしたスタイルの選手は、なぜかヤマハ発動機(現在のジュビロ磐田)に多かった。
ディエゴ・マラドーナは大きなすね当てをして、ストッキングをしっかりとひざ上まで上げていた。足をけられることは、彼にとって「仕事」の一部だったからだ。相手を5人も6人も抜いてゴールを決めるというもうひとつの仕事を完遂するには、けられたからと言って痛がってなどいられない。だから徹底的に保護したのだ。そして慢性的な痛みをかかえていた足首には白いテープをぐるぐる巻きにして固定し、試合をした。
ところがそのテープ固定部分はだんだん大きくなって、しまいにはすねの半分ぐらいまでになってしまった。白いストッキングなら問題はない。しかしチームメートが全員青いストッキングをはいているなか、まるで白いストッキングのような選手がいるのは、レフェリーとしては都合が悪い。そこでいまでは、「テープを巻くときには、ソックスと同じ色でなければならない」と規定されている。
最近、私のチームの選手には、「5本指ソックス」を愛用するあまり、ストッキングの足首から下を切り取ってはいている者が何人もいる。5本指ソックスがストッキングと違う色なら、テープと同様、ストッキングとは違う色が外から見えてはいけない。シューズのなかに隠れるよう、苦労しているという。