■衝撃だった日立の黄色

 Jリーグをプロとして成り立つものにしようとみんなが知恵を絞っていた1990年代のはじめ、大きな問題はユニホームの色だった。当初の10クラブのうち、まったく新しく設立された清水エスパルスを除く9クラブはすべてJSLでプレーしていたのだが、そのうちなんと6クラブのユニホームが「青」を基調にしていたのだ。

 

 みんな青では、プロとしての華やかさに欠け、商品開発にも支障をきたす。討論に討論を重ね、いくつかのチームがJSL時代とはまったく違う色のユニホームでプレーすることになった。JSL時代(住友金属)の青から濃い赤になった鹿島アントラーズ、青と水色の縦じまを着ていた古河電工(JR東日本古河)が黄色主体に変えたジェフ市原(現在の千葉)、そしてマツダが着ていた青と白の縦じまから紫にしたサンフレッチェ広島である。

 だが、少し時代をさかのぼれば、もっと多くの「青のチーム」があった。

 現在はともに黄色でプレーする千葉県の2クラブ、ジェフ千葉と柏レイソルは、ともにJSL創設時からの古豪であり、千葉は古河電工、柏は日立製作所として、ともに東京駅前の丸の内に本社をもつ大企業のチームだった。そして古河だけでなく、日立も、1960年代には青でプレーしていたのである。

 日立が黄色に変わったのは1972年のこと。1950年代の後半から1960年代初頭にかけて日本代表の監督も務めた名将・高橋英辰(ひでとき)が1970年に監督として日立に復帰したころ、JSLの人気を二分していたのは、釜本邦茂やネルソン吉村を擁して「ブラジル・スタイル」を押し立てるヤンマー・ディーゼル(現在のセレッソ大阪)と、杉山隆一、森孝慈、横山謙三、片山洋などそうそうたるメンバーを並べて二宮寛監督仕込みの「ドイツ・スタイル」を標榜する三菱重工(現在の浦和レッズ)。これに対抗すべく、「サッカーの原点回帰」とばかりに、高橋監督は「走る」ことを強調し、71年にはファンも「走る日立」と口にするようになったが、いかんせん釜本や杉山ばりの国際レベルの選手はおらず、なかなかタイトルには手が届かなかった。

 そこで1972年、高橋監督が考えたのが、ユニホームを変えることだった。「小柄なやつが多かったから少しでも体を大きく見せようとした」と、上から下まで真っ黄色なものに変えたのだ。それまでのJSLには、「真っ黄色」のチームはなかったから、日立の黄色は衝撃的だった。そして選手たちはまるでコマネズミのように走って走って走りまくり、最終節で逆転優勝を飾る。以後、日立は「黄色」のチームとなり、現在の柏レイソルにつながる。

 1993年にJリーグがスタートしたとき、「色」をニックネームにしたクラブが2つあった。浦和レッドダイヤモンズ(レッズ)とヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)である。

 Jリーグが始まったころの「絶対的チャンピオン」ヴェルディは、ポルトガル語で緑を表す「ヴェルジverde」からの造語。JSLの読売サッカークラブ時代から着てきた緑のユニホームを、中心選手のラモス瑠偉らブラジル人が「うちのチーム」というようなニュアンスで「ヴェルジ」と呼んでいたことから始まった。最後の「e」を「y」に変えたあたり、なかなかセンスのいい名称だった。
 ところが「レッズ」も「ヴェルジ」も、元をただせば「青のチーム」だったのだ。

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