■レッズがレッズになった理由

 三菱はオリンピック代表選手を数多く擁する東京の人気チームで、東洋工業の5連覇にストップをかけて1969年にJSL初優勝。1972年には杉山の変幻自在の活躍で天皇杯とJSLの2冠を獲得した。名実ともに日本の最高峰のチームだった。

三菱は「青」の印象が強いチームだった(1969年、森孝慈を表紙にした『サッカー・マガジン』)

 しかしその後も上位はキープするもののタイトルは遠く、1974年からは4シーズン連続2位という悲哀を味わった。

 1976年、二宮寛が日本代表監督となり、後任を任された横山謙三は現役を引退、監督に専念した。だがその年も翌年も2位。5シーズンもタイトルから遠ざかり、何かを変えなければと横山は考えた。

 そこで1978年、ユニホームを一新した。

 三菱といえば鮮やかな青のユニホームで知られていたのだが、それをシックな紺色に変え、首回りと袖口に紺と白をあしらった。そのとき「サブユニホームも変えよう」と思い立った。それまでの第2ユニホームは白だったが、それにもう1色加えることにしたのだ。横山は社章の「スリーダイヤ」の赤を思い浮かべた。そこで気軽に「赤だ」と言った。日立といい、三菱といい、ユニホームにまで監督が口を出すところにJSL時代らしさがあふれている。

 この年、JSLの開幕戦は「紺」で勝利。幸先は良かった。「赤」のデビューは5月3日、大宮での日本鋼管戦。1-0で勝った。だがその4日後、「紺」を着て臨んだ日立戦は2-3の逆転負け。首位奪取のチャンスを逃すと、「紺」は用具置き場にしまわれたままになる。

 JSL前期をまたも2位で終えた三菱は、夏の中断期に「JSLカップ(現在のルヴァンカップのような大会)」に臨む。そして準々決勝でヤンマーに、準決勝ではこの年JSL1部に上がったばかりで旋風を巻き起こしていた読売クラブにともに2-0で勝ち、決勝戦でフジタ(現在の湘南ベルマーレ)と対戦。前年のJSLで圧倒的な攻撃力を見せて初優勝を飾ったチームである。3日連続の猛暑のデーゲームという厳しいコンディションのなか、横山監督の猛練習をしのいできた三菱の選手たちは最後まで走った。そして延長戦の残り3分でベテランの細谷一郎が決勝点を決め、実に6シーズンぶりのタイトルを獲得した。この「猛暑3連戦」で着用したのが、「赤」だったのだ。

 波に乗った三菱はJSLで3度目の優勝を果たし、天皇杯も制して、日本国内で初めての「3冠」チームとなる。「赤」は夏以降には「第1ユニホーム」に昇格、以後、三菱は「赤」のチームとなり、「レッズ」へとつながっていく。

 ちなみに、日本代表が「赤」になったのも、横山謙三が代表監督を務めていた時期である。

1980年代、すっかり「赤」になった三菱(1983年、原博実と尾崎加寿夫のダブルエースを表紙にした『サッカー・マガジン』)。
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