昨年11月、英国の『デイリー・ミラー』紙が世界のサッカー監督の年俸ベスト10を掲載した。それによると、世界一の高給取りはマンチェスター・シティのジョゼップ・グアルディオラ監督で、2000万ポンド(約28億円)だったという。
ちなみに、日刊スポーツ発行の『2020Jリーグ全選手名鑑』によると、J1の全18クラブの最高年俸監督は昨年度のチャンピオンである横浜F・マリノスのアンジェ・ポステコグルー監督で推定2億円。ただ、彼以外に1億円を超えている監督は柏レイソルのネルシーニョ監督(1億5000万円)ただひとりで、18監督を平均するとおよそ7000万円。「世界」との巨大な格差は、実力以上に、「マーケット(市場競争力)」の差のような気がする。
華やかさ、注目度において選手に負けないほど華やかな存在である現代プロサッカーの監督たち。細身のスーツに身を包み、テクニカルエリアに出て大きなジェスチャーで存在をアピールする。試合が終われば、勝っても負けても何にも動じていないような顔でマイクの前に立ち、テレビカメラを十二分に意識した表情でクールな発言を繰り返す。
しかしトレーニング・グラウンドを離れたとき、監督たちはまったく別の思いを味合わなければならなくなる。「監督の更衣室」ほど哀愁にあふれた場は、サッカーでは他にはないと、私は確信するのである。
最初にそれを感じたのは、1976年のことだった。
シーズン開幕戦を翌日に控えた金曜日、当時マンチェスター・ユナイテッドを率いていたトミー・ドカティ監督にインタビューした。
スコットランド代表で、プレストンなどで活躍し、監督としてもスコットランド代表をはじめ数々のクラブを指揮してきた彼は、この前シーズンに2部から復帰したばかりのユナイテッドを1部3位に躍進させ、FAカップ決勝にまで導いて、当時のイングランドでは最も人気があり、注目されていた監督だった。