■高かった「JSL参戦」の壁
当時の日本サッカー協会は、プロ選手の登録を認めていなかった。オリンピックに出場する選手を養成する機関として設立された日本体育協会(現在の日本スポーツ協会、当時の英語表記はJapan Amateur Sports Association)の加盟団体だったためである。もっとあからさま言えば、体協からの補助金なしに日本サッカー協会の運営はできない状況だった。だから体協の規定に縛られていた。当然、JSLも建前上は「全員アマチュア」である。
1978年にJSL1部に昇格した読売サッカークラブは(報酬の多寡はあっても)実質的に「プロ選手」の集まりだったが、登録上は「アマチュア」とされていた。
加茂さんは自らを「プロコーチ」と規定し、日産の選手も実質的にプロにすることを、ことあるごとに会社に進言していた。従来のように「社員」として雇用するのではなく、加茂さん自身と同様、「単年契約の常勤職員」とすることだった。
日産にはテストドライバーがこのような契約で嘱託として働いていたから、システムには理解を示し、加茂さんにはその立場は認めた。しかし、サッカー部の選手については「時期尚早」としていた。「日産自動車サッカー部」は、あくまで社員の「福利厚生」のための活動で、会社の広告宣伝のためではないという立場だった。日本を代表する大企業のチームが並ぶJSLの中で、日産だけ「突出」するわけにはいかなかったのである。









