
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような超マニアックコラム。今回は日本サッカーの「夜明け前」。
■「日本でプレーしたい」
加茂周さんという人については、当然、JSLの取材現場で知っていたが、個人的に話したことはなかった。「加茂さんに会おう」と考えたのは、トヨタカップ出場チームを取材するためにアルゼンチンに行っているときに、ある選手から頼みごとをされたためだった。
「日本でプレーしたいんだけど、どうだろうか」
こう話し始めたのは、南米クラブチャンピオン(リベルタドーレス杯優勝)、CAインデペンディエンテの副主将格でMFのクラウディオ・オスカル・マランゴニ。1954年11月17日生まれ、もうすぐ30歳を迎える選手だった。1983年にカルロス・ビラルド監督によってアルゼンチン代表に選ばれ、1983年のコパアメリカで活躍したが、ビラルド監督の守備戦術に疑問を呈し、「攻撃的なサッカーをしないと選手たちが萎縮してしまう」と進言、ビラルド監督に嫌われて代表を外された選手だった。
インデペンディエンテでの背番号は5。センターバックではない。アルゼンチンのサッカーでは、この頃も「ピラミッドシステム」時代の「ロービング・センターハーフ」、すなわち「中盤の王様」として攻守両面でチームを牽引する役割が生きていた。現代でいう「アンカー」のようなポジションである。1966年のワールドカップでこの役割を果たしていたのが伝説の主将アントニオ・ラティンであり、マランゴニはその伝統の正当な後継者だった。
186センチ、金髪の長身選手。ヘディングが強かったが、何より高い守備力を持っており、ダイナミックな動きの中で繊細なテクニックを見せてチャンスメーカー役を果たした。それだけでなく、強烈なミドルシュートでチームに勝利をもたらすことのできる選手だった。