■クラブと代表の監督を「兼任」

 生まれ故郷のクラブ、RNKスプリトと、同じ町の強豪であるハイドゥク・スプリトでMFとしてプレーし、32歳で引退。ベオグラード大学で体育教師の資格を取り、ハイドゥクのユースチームでコーチとしての仕事を始めた。

 そして選手として所属したスプリトの2クラブで指揮を執った後、アヤックス(オランダ)、アンデルレヒト(ベルギー)、ガラタサライ(トルコ)、アベリノ(イタリア)、パナシナイコス(ギリシャ)など欧州各国の強豪クラブを指揮し、1987年夏に欧州チャンピオンズカップで優勝した直後のFCポルトの監督に就任した。

 そのシーズン1年目で、彼はトヨタカップで優勝するとともに、ポルトガル・リーグも制覇し、ハイドゥク・スプリト(3回)、アヤックス、アンデルレヒト、パナシナイコスに加え、5か国目のリーグを制することになる。これは後年、カルロ・アンチェロッティ(イタリア)に並ばれるまで、「世界記録」だった。

 1973年から1974年にかけては、ハイドゥク・スプリトの監督を務めながら、ユーゴスラビアの「監督」も兼任していた。といっても、5人の「委員会」による「共同監督」のひとりで、委員会はミルヤン・ミルヤニッチが中心となっており、最年少(当時40歳)のイビッチは実質的に「コーチ」の役割だった。この体制は2次リーグまで進出した1974年ワールドカップの西ドイツ大会まで続いた。

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