■日本には「ベルリンの奇跡」とともに…

 ところで、日本のサッカーはこの「革命」にどう対応したのだろうか。現在の日本サッカー協会は1921(大正10)年に「大日本蹴球協会」として誕生したが、FIFAに加盟するのは1929(昭和4)年のことで、この「革命時」にはFIFAからの直接的な情報はこない。

 しかし、IFAB年次総会の翌々日、1925(大正14)年6月14日付けの新聞には、外電で「オフサイドが従来3人とあったものが、2人に改正された」ことが伝えられていた。それを受けて、当時最も高いレベルで競技されていた「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」(1924年にスタート)では、1926年1月30日の早稲田大学対慶応大学の試合で、初めて「新ルール」での試合が行われたという(日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』1974年講談社)。

 この後、大日本蹴球協会はFA発行の冊子(実質上のルールブックだった)を確認、1926(大正15)年版のルールブック発行をもって「2人制」のオフサイドを採用した。

 とはいっても、当時は国際試合は「極東選手権」への出場だけで、「革命後」のサッカーが英国や欧州どう発展しているのか、具体的に知るよしもなく、海外雑誌などを通じてWMという新システムがイングランドで成功しているというか細い情報ははいってきたものの、具体的にどうプレーするのか、想像はつかなかった。

 1936年にドイツのベルリンで開催されたオリンピックに出場した際、日本代表は現地に到着してから地元クラブと行った3試合でこの新システムを吸収し、スウェーデンとの初戦に臨んだ。スウェーデンに勝った「ベルリンの奇跡」は、日本サッカーに後年までの心の支えとなるのだが、同時に「革命」の産物であるWMシステムも日本にもたらしたのである。

 1925年に欧州で起こった「サッカー革命」の戦術的波及が「極東」の日本に至るまでに11年もの歳月を必要としたことに、「100年」という時間の長さを感じる。

PHOTO GALLERY ■【画像】サッカーに革命をもたらした「変更」と【図解】「革命前」と「革命後」のオフサイドライン
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