■サッカー浸透の原点

 さて、私が小学校に上がった1958年は、日本のサッカーにとって非常に重要な年である。この年、小中学校の「学習指導要領」が11年ぶりに全面改訂され、「体育」の学習内容のなかに初めてサッカーが採用されたからである。当時東京教育大学(現在の筑波大学)で教べんをとっていた故・多和健雄さんの尽力で採用されたものだった。

 学校で親しんだことにより、1960年代にはサッカーという競技が日本人にとってなじみのあるスポーツになり、東京とメキシコ両オリンピックでの日本代表の活躍で次第にポピュラーな競技となっていく。日本サッカーの発展への多和さんの貢献は、非常に大きなものであったと言わなければならない。

 1918年に愛媛県で生まれ、兵庫県立第三神戸中学校、東京高等師範学校(筑波大学、東京教育大学の前身)でサッカー選手として活躍した多和さんは、サッカーの教育的価値、そして文化的価値を広めようと、1956年に始まった学習指導要領改訂のために招集された教育審議会に働きかけた。当時、サッカーは日本人にはほとんどなじみがなかったが、多和さんの働きかけは見事成功した。

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