■「戦後」が色濃く残る時代

 私は1951年生まれである。昭和にすると26年、「戦後」がまだ色濃く残っている時代だった。神奈川県横須賀市の外れの漁港の町で生まれ育った。私の家のすぐ背後、港に面した地区には米軍の倉庫があり、ときおりジープに乗った米兵がやってきた。

 日本海軍の軍港をもっていた横須賀市だから、当然、空襲はあった。しかし市街地の被害はそう大きくはなく、私の住む町も、読者がNHKの戦争ドラマでよく見るに違いない「焼け跡・闇市」のような光景ではない。戦争孤児たちが米兵のクツ磨きで家族を養わなければならなかった時代でもない。私が生まれる前年の1950年に始まり、2歳の誕生日の直後に終結を迎えた朝鮮戦争によって、日本の経済は急速に復興し、私が少年期を迎えるころには日本の社会はだいぶ落ち着いていた。

 米兵が貧しい服装をした日本の子どもたちにチョコレートを配る図は、私の少年時代にはもう「昔話」のようになっていた。しかしある日レイバンのサングラスをかけた米兵が私の家の近くをジープで通りかかるのを見かけたとき、私は遊び友達と彼をからかってやろうといたずら心を起こした。そして通り過ぎる米兵に向かって、「チョコリット、チョコリット!」と叫んだ。横須賀の子どもたちは、英語の発音が本場風なのである。

 驚いたことに、その米兵はブレーキをかけてジープを止めた。そして車から降りてくると、「きょうはチョコレートはもっていないけど、チューイングガムがあるからあげよう」と、私たちにガムをくれたのである。

 小学校に上がったか上がらないかのハナたれ小僧(私はまさに、四六時中鼻水をすすっているハナたれ小僧だった)でも、当時の子どもはそれくらいの英語は理解できた(これはウソ。しかし状況を考えれば、言っていることを想像するのは難しいことではなかった)。そして満足そうに走り去るジープの米英に「センキュー!」と叫びながら手を振り、ハナたれ小僧仲間とおいしくガムをいただいたのである。

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