■三菱自動車へ
北山さんは日本サッカー協会の国際委員を務め、アルゼンチンと南米のサッカー界に広い人脈をもっていた。そして彼の会社には、さまざまなプロ選手が訪れ、日本の情報などを得ていることも聞いていた。そこにある日エスクデロが訪ねてきたというのだ。選手と話しながら、北山さんはその選手の人間性、信頼できる人物かどうかを鋭い目で観察するのが常だった。その北山さんが話をもってくるのなら問題はないはずだと思った。
私がひらめいたのは、翌年埼玉県の浦和市でプロクラブをスタートさせることになっていた三菱自動車だった。日本サッカーリーグで4回の優勝を誇る名門中の名門だが、1980年代半ばから「プロ志向」の読売サッカークラブや日産自動車などに圧倒され、1989年には2部降格、1年で1部に戻ったものの、その1年目の1990/91シーズンは12チーム中10位に低迷、かろうじて再降格を免れるという成績だった。幸いなことに、このチームには知り合いがいる。「話してみます」と、北山さんに返事をした。そして三菱自動車からは、「すぐに北山さんとコンタクトします」という返事をもらった。