■アルゼンチンでのスタート
アレクシスの祖先がアイルランドを出たのは1860年代のことと言われている。出身はダブリンの北12キロほどの農村ドナバト。1840年代にアイルランドを襲った「ジャガイモ飢饉(主要作物の小麦がすべて年貢として英国に取り上げられるなか、アイルランド農民の生命を養ってきたジャガイモが疫病で枯死し、結果的に100万人が飢え死にし、100万人が海外への移住を余儀なくされたと言われる出来事)の影響だったかと思われる。さまざまなところを渡り歩いた一家がアルゼンチンにきたのは1865年のことだったという。
そしてやがてサンタローサという町に定着する。アルゼンチンの中央部に位置するラパンパ州の州都だが、日本の4割近くの面積をもちながら州全体の人口が約30万人というラパンパ州で、サンタローサは現在でも人口10万にも満たない小さな町である。そしてこの町から、アルゼンチンのサッカー史に残る一家が誕生するのである。
そのはじまりはカルロス・パトリシオ・マカリスターというこの一家出身の小柄な青年だった。1982年、16歳でアルゼンチンのビッグクラブのひとつである「エストゥディアンテス・ラプラタ」のテストに合格し、2年後にプロに昇格、スピードのある左ウイングとして活躍した。
それに続いたのが、2歳年下の弟、カルロス・ハビエルだった。ともに最初の名前が「カルロス」なので、ここからは、アルゼンチンで通常知られているように、兄を「パトリシオ」、弟を「カルロス」と呼ぶことにする。
カルロスはブエノスアイレスのアルヘンチノスで1986年にプロとなり、左サイドバックとして頭角を現した。身長は175センチと、兄より4センチ高いだけだったが、スピードがあるだけでなく、兄にはない体の頑健さをもっていた。そしてヘディングも強かった。1992年にはボカ・ジュニアーズに移籍、アルゼンチン代表でも3試合プレーした。