■その10 フェアプレー
ペレは間違いなく最高クラスの天才選手だった。アルフレード・ディステファノ(アルゼンチン)らペレ以前のスーパースターを私は実際に見ていないので比較はできないが、以後の選手でペレと比較できるのは、かろうじてアルゼンチンのディエゴ・マラドーナとオランダのヨハン・クライフだけではないか。しかしペレが世界中で愛されたのは、その天才的なプレーだけによるのではない。何よりも彼の笑顔、誰をも差別せずに受け容れる人柄にあった。
幸運なことに、私は数回ペレにインタビューをする機会を得た。すべて1990年代のころのことである。アメリカのニューヨーク・コスモスでの2回目の引退から十数年。マラドーナが世界を制した後にも、ペレは世界の寵児だった。当時ペレはクレジットカードの「マスターカード」と契約し、ワールドカップや欧州選手権の大会スポンサーの「広告塔」として活動していた。そのペレ担当者と知り合いだったため、ペレとのインタビューという夢のような機会が、しかも複数回与えられたのだ。といっても、単独ではなく、数人での合同インタビューだったが…。
ペレの声は、よく響くバリトンだった。英語も達者だった。何より感心したのは、もう何万回、何十万回も聞かれていると思われる質問に対しても、ペレはまったくそんなそぶりを見せず、まるで初めて聞かれたかのように誠実に丁寧に答えていたことだった。
世界中のサッカーファンが、そして世界中の少年少女が愛する「ペレという役割」を、何十年間も演じ続けられる強靱な精神力は、1000を超す試合のすべてでチームの勝利のために全力を尽くした現役時代の秘密を十二分に解き明かすものだった。
そしてまた、ペレは「友情」と「フェアプレー」の大切さを説くことも忘れなかった。いつも挙げたのはボビー・ムーアの例だった。1970年ワールドカップの2試合目に対戦したイングランドは、この大会でブラジルがぶつかった最も強い相手だった。GKゴードン・バンクスは、完璧なゴールと思われたペレのヘディングシュートを、ゴール幅の8メートルをまるで瞬間移動するように動いてはじき出した。そして何よりもペレのプレーを制約したのは、イングランドDFボビー・ムーアの卓越した守備技術だった。