「たまたま10番ということになったんだよ」と、ペレ自身は語っている。

 近年のワールドカップにおいて、ブラジル代表はあらかじめ「レギュラー」と予定された選手にポジション別に1番から11番を割り振り、12番以降は、各ポジションのバックアップ選手に、レギュラー番号に10を足したものが割り振られている。たとえば1982年のスペイン大会では、トニーニョセレーゾが5番、ソクラテスが8番、ジーコが10番だった。大会前には4-3-3システムが予定されており、MFはこの3人だった。

 しかし初戦はトニーニョセレーゾが出場停止だったため、その「バックアップ」の背番号15ファルカンが初戦のソ連戦に出場。そのパフォーマンスがあまりに良かったため、第2戦のスコットランド戦では「先発予定」の3人にファルカンを加えた4人をMFに並べた。それが「黄金の4人」の始まりである。

 ところが1958年大会時のブラジルサッカー協会の担当者はよほどのうっかり者だったらしい。番号を付けずに選手リストをFIFAに送ってしまったのだ。試合では背番号をつけることになっている。FIFAの担当者は一瞬困ったが、彼もまたのんき者だった。「背番号は個人を識別するものだから、何番でもいいだろう」とばかり、自分で適当に番号を割り振ってしまったのだ。そして17歳のペレに与えられたのが10番だった。

 1番は1954年大会でブラジルのゴールを守っていたカスティーリョ(FIFAの担当者にはその知識があったのだろう)だったが、この1958年大会のレギュラーGKとなるジウマールは3番だった。そのほかにも、センターバックのゾジモが背番号9をつけるなど、この大会のブラジル選手の背中には非常にちぐはぐな番号がついていた。そうしたなかでペレが10番をつけたのは、まさに「運命」だった。10番は左のインサイドFW、あるいは第2ストライカーの番号である。まさにペレの番号だったのだ。

 以後、背番号10は、ブラジルだけでなく、世界中のサッカー選手のあこがれとなった。それがいまでも続いているのである。

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