■マラドーナに重なる姿
だが、いずれにしても戦術やスタイルは、試合に勝利するための道具に過ぎない。
「カウンタープレス」が有効とFIFAのテクニカル・チームが言おうと言うまいと、それは勝つための一つの方法なのだ。
アルゼンチンが、「メッシ」という方法を使って勝利するのであれば、それを単に「時代遅れ」と言って切り捨ててしまうのは間違っている。他の国にはメッシがいないというだけのことである。
ただし、「メッシ」という勝利の方程式が通用するのは、メッシが現役でいる間だけのことである。
いずれ、メッシがいなくなった時には(たとえば4年後の大会)、アルゼンチンはやはりヨーロッパの最新戦術に対応したサッカーをせざるを得ないはずだ。
1980年代の3つの大会(スペイン大会、メキシコ大会、イタリア大会)はまさにマラドーナの出来にその浮沈がかかっていた。若くて、自分をコントロールできずに自滅してしまったイタリア大会。まさにキャリアの最高の出来でアルゼンチンを優勝に導いたメキシコ大会。そして、負傷を抱えながらも、要所要所で個の力を発揮してアルゼンチンを決勝に導いたものの、そこでもいくつもの反則を受けて優勝に届かなかったイタリア大会。
アルゼンチンの成績はマラドーナに懸かっていたのだ。そして、最近の10年以上、アルゼンチンはメッシ依存の中で戦ってきた。
11月26日のメキシコ戦を見れば、「メッシなしではアルゼンチンは勝てない」という命題は真実のようだ。そして、一方で「メッシがいる限り、アルゼンチンのサッカーは変われない」ということも真実なのである。
まさに、メッシは(マラドーナと同様に)アルゼンチンにとっては麻薬のような存在なのである。