■ポジションはなく、あるのは「フットボーラー」だけ

 1960年代のウクライナは、もちろん、旧ソビエト連邦を構成する共和国のひとつである。旧ソ連時代には全国リーグがあったが、ディナモ、スパルタク、CSKAなどの首都モスクワ勢がタイトルを独占していた。その独占を初めて破ったのが1961年のディナモ・キエフの優勝であり、1964年にマスロフが監督に就任すると、その指導下、ディナモ・キエフは1966年から1968年まで3連覇を達成する。

 マスロフのサッカーは「プレッシング・スタイル」と表現された。ピッチ全面で猛烈なプレスをかけ、ボールを奪う。そして相手ボールを奪うと、一挙に相手ゴールに襲いかかっていく…。

 「マスロフの指揮下のディナモ・キエフには、ストライカー、ミッドフィルダー、あるいはディフェンダーというような概念はなかった。あったのは、『フットボーラー』だけだった。彼らはピッチ上のあらゆる局面でその状況に適したプレーができなくてはならなかった」

 こう語ったのは、マスロフ着任の1年目、1964年にFWとしてディナモ・キエフでプレーし、後に監督として帰還してディナモを再び旧ソ連で無敵のチームに仕立て上げたバレリー・ロバノフスキーである。1960年代といえば、「冷戦」の真っ最中である。残念ながら、情報統制も厳しく、旧ソ連時代の国内サッカーが西欧や世界で報じられることはほとんどなかった。そしてマスロフとディナモ・キエフの革命的なサッカーが世界に喧伝されることもなかった。

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