大住良之の「この世界のコーナーエリアから」連載第57回(3)「5月の憂鬱」スペルガの悲劇、或いは、最高の選手の友情についての画像
1949年5月4日、「グランデ・トリノ」の選手18人を乗せた航空機が激突したトリノ東方の「スペルガ」の丘の山頂に立つ大聖堂。機は大きな写真の左にある建物の裏手の基部の石垣に激突した。修道僧のひとりは、直前に飛行機のエンジン音を聞いており、大音響を聞いて大聖堂のシンボルであるドームに激突したのではないかと思ったという。激突地点には、犠牲者を偲ぶ石碑が建てられている。 提供/大住良之

イタリアを訪れたことのあるサッカー愛好家なら、「スペルガの悲劇」のことや、グランデ・トリノの伝説はご存じかもしれない。イタリアではサッカーファンであれば少年少女にまで語り継がれている。国境をまたいで行われるサッカーに襲いかかる悲劇、そのひとつが航空事故だ。かつてJリーグでプレーした複数の選手が乗った飛行機が墜落して命が奪われたこともあった。その航空機での最初の大きな事故がセリエAで4連覇中だったACトリノを襲ったのは、5月のちょうど今頃の時期だった——。

■リスボンで披露した最後の勇姿

「グランデ・トリノ」を迎えるベンフィカ側にも大きな問題があった。当初、クラブが招聘を予定していたのは、トリノではなく、同じイタリアのボローニャであり、すでにクラブ間で基本合意に達していたからだ。ボローニャは「グランデ・トリノ」の時代になる直前、第二次世界大戦前の「最強クラブ」だった。だがフェレイラ自らが、欧州にその名をとどろかせている「グランデ・トリノ」を引っぱってきたことにベンフィカの首脳は狂喜した。そしてボローニャには、「フェレイラ自身の熱烈な希望により」と断りを入れた。もちろんボローニャの名会長として知られるレナト・ダッラーラは激怒したが、5月4日のニュースを聞くと、運命のいたずらに感謝することになる。

 乱気流に悩まされながらも5月1日のフライトは順調に進み、バルセロナでの給油を経て午後4時半にリスボンに到着した。トレーニングだけでなく、リスボン市長によるレセプションなど忙しい日程をこなしながら、トリノの選手たちは市内観光も済ませ、お土産物を買ったり、家族や恋人に絵はがきを書いて短いリスボン滞在を楽しんだ。

 5月3日の試合は、前売りの状況が悪く、ベンフィカの役員の気をもませた。しかしキックオフ直前に一気にファンが押しかけ、スタンドは4万人の観衆で満員になった。トリノが先制し、ベンフィカが逆転し、トリノが追いつき、またベンフィカが先行して前半が終了、後半にベンフィカが1点を加えて2点差にすると、トリノが1点を返し、試合は4−3でベンフィカの勝利に終わった。公式戦のような激しさはなかったが、最高クラスの選手が見せる最高クラスのプレーに、ファンは大喜びだった。

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