■「昔に比べて韓国はスマートになった」
―67年の試合は後藤さんの人生を変えた、という素晴らしいゲームだったわけですが、大住さんの一番最初の日韓戦の記憶も、67年ということでよいでしょうか?
大住「そう。韓国というのは、大変なもんだなと思った。簡単に勝たしてくれないし、勝負に対する強い気持ちは本当にすごいなって思った。ああいうライバルがいたから、日本のサッカーは伸びてこれたんだなって」
後藤「近くにあんな良い相手がいたんだからね」
大住「あれに勝たないといけないんだから大変だよ」
後藤「それまで僕らは、日本の方が強いんだって何の根拠もなく思っていたけど、だけどあの時の韓国は強かった」
―当時の韓国はどういうサッカーをやっていたんですか?
後藤「キム・ジョンナム(金正男)がいて、キム・ホ(金浩)がいて、イ・フェテク(李会沢)がいて。つまり、のちに韓国代表監督になる名選手が3人もいたんだよね」
大住「ボールコントロールは韓国のほうが上だったよね。特に浮き球のコントロールは」
後藤「特にグチャグチャの重馬場のピッチでは、ああいうのが強いもんな」
―テクニックが優れていたと?
後藤「器用なことをするテクニックではなくて、難しいボールでも、とにかくコントロールしちゃうという強さというか。今でもそうだけど、本当に変わらないよね。良くなったり悪くなったりはしているんだけど」
大住「でも、今の韓国のチームはだいぶスマートになったよね」
後藤「“自分たちはスマートなんだ”って勘違いしてくれると、日本にとっては嬉しいんだけどね。力ずくのサッカーを向こうが始めるとヤバイんだけど、綺麗なサッカーをしようとしてくれると、日本には付け入るスキがある」
―この時の日本代表は、松本育夫、釜本、杉山の3人が前にいました。
大住「宮本輝紀が中盤でゲームを作っていたよね」
後藤「宮本も大好きな選手だった。彼のプレーを見ていなかったら、僕はここまでサッカーを好きになっていなかったのかもしれないな」
大住「テクニックがあって、頭が良くて」
後藤「オールバックで綺麗に髪を整えてさ。アイデアがあふれて、意外性があった、当時はそんなプレーをする唯一の人だったね」
大住「その宮本がゲームを作って攻撃をするっていうチームで、基本的には釜本が決めるっていう形はあったけどね」